2012年9月7日金曜日

[紹介] 内田樹『先生はえらい』

内田樹『先生はえらい』
学びの構造・本質について逆説的に書かれた一冊。構造主義などの話も盛り込まれてる。コミュニケーションは達成されない仕掛けがある、学びの本質は一方的な思い込みと誤解に基づく、か…なるほどなんだけど、う~ん(crossreview

 本書は、非常に深い内容を扱っている半面、非常に誤解されやすい内容だと思います。

 本書のテーマは「学びのメカニズム、そして、学ぶものとしてあるべき姿勢」です。やや乱暴に要約すると、学びというのは師から弟子へ教えられるものではなく、弟子が師に対して学ぶべきものを発見し勝手に学ぶものである、というものだと言えます。
 少し変な理屈にも聞こえますが、著者の本でよく展開される思考パターンがこの「逆説」です。まず社会通念と真逆な命題を提示し、「でもね、一度因果関係をひっくり返して考えてみてもらえます? ほら、こっちの方が本質を突いた物の見方でしょ?」という説得パターンは著者の議論のあちこちで見られます。これを押さえておくだけでも著者の本はかなり理解しやすくなります。

 本書に対する一番の批判は、「師の人間性がどんなに腐っていても、そこから学べないのは弟子側の責任? それ、ちょっとおかしくない?」というものではないでしょうか。
 実は私自身、ずっとこれに引っかかっていました。実際、師に近い位置にいたボスが本書の命題を引き「(どんな理不尽であっても)そこから学ぶかどうかは君次第。俺の理不尽に反発していると学べないよ」とトンデモなことを言っていたのです。言われた当時から「それは絶対間違ってる!」とは思っていましたが(ブラック企業の論理そのものですからね)、その直観をうまく説明できないでいました。
 このことはボスの下を離れてからもしばらく考え続けていたのですが、やっと自分なりの答えを出すことができました。

 まず、師と弟子の関係を以下に図式化します。

 師 →(1)→ 弟
   ←(2)←  
 匠 ←(3)→ 子

 我々が一般的に「学び」として考えるのは(1)です。師から弟子に教えられるモデルです。
 しかし、本書で論じているのは(2)です。そして、著者は学びの本質は(1)ではなく(2)である、ということを本書では言っているのです。
 弟子は、師匠の中に見た「自分の学ぶべきこと」を学ぶのです。それは勘違いだったり、師匠自身が考えてもいないことだったり、あるいは「反面教師」にすることだったりもします。が、とにかく「弟子の誤解や勘違いからでも学びは発生する」のです。
 そして、弟子は自分の学びたいことを勝手に学んでいくのが「学び」だとすると、学びの成果というのは予測不能になります。
 極端な例になりますが、例えば、あまり授業の上手くない中学校の数学の先生が、指導要領や教科書に則って何の工夫もなく因数分解のやり方を教えたとします。でも、その先生のことを尊敬し、数学にはその背後に叡智が潜んでいると思い込んで授業を受けている生徒が、「あ、そうか!因数分解って共通項をまとめるということか。この考え方を応用すればプリントの整理や部屋の片付けが上手く行くかもしれない」と掃除の極意を掴んじゃったりすることもあるわけです。
 この話を裏返して言えば、同じ授業をしていても人によって理解の躓きになるポイントが違ったり、ある人に通じた例えが他の人には通じないことが往々にして発生する一因として、「学ぶ側が学びたいように学ぶ」という要素は無視できないと思います。
 結局、学びというのは完全に学ぶ側にイニシアティブがある営為なのだ、というのが本書の重要な指摘の一つです。
 そして、弟子は師から学ぶべきことを学んだら勝手に離れていきます。

 では、逆に(1)とは何か、師の条件について考えてみます。
 本書では触れられていませんが、著者は別のところで師の条件について、ただ一つ「師自身が常に学び、成長し続けること」と言っています。
 これは確かにそうなんですが、やや条件として少なすぎます。そうなったのはおそらく著者の師匠の一人である合気会師範・多田宏九段が技量・人格共に素晴らしすぎるためではないか、と私は考えています。
 師の側で弟子に「学び」を発生させようとする場合、最低条件になるのは、弟子の持っていない知識や技術・能力を有していること、少なくとも弟子にそう錯覚させること、です。これがあれば「学び」を誘発させられる可能性はかなり高まります。
 そういう意味では、先に挙げたボスのように「俺を盲信しないと俺から何も学べないよ」と言ってしまうのは、師としては口が裂けても言っちゃいけない最低のセリフということになります。マンガ『巨人の星』で、誰も捕れなかった自分の球を初めて捕ってくれた伴忠太に主人公・星飛雄馬は「俺は今、モーレツに感動している…!」と心中でつぶやくのに対し、「それを絵で表現しろよ!」とツッコミが入るようなものです。弟子に学びを発生させられてない時点で、師としてありたいなら反省すべきことであり、どうやったら学びを誘発させられるかに頭を使えよ!という話になります。

 話が逸れました。
 師の条件として「自身が学び続けること」というのは、わかりやすいく言えば「ネタ切れ」の防止でしょう。
 が、もっと本質的には、この話の根底にある構造主義の「贈与」の話に基づいています。贈与というのは、送り手側の贈与行為によって発生するのもではありません。受け取った側が「贈り物を受け取った」と(誤解でも)思うことでスタートするものである、という考え方が本書の中で説明されています。
 だから、著者は「何かを欲しかったら、まずあなたが人に何かを与えなさい」と言います。別のところで著者はサッカーについて「パスを出す人の所にボールが集まる」と贈与との構造的類似性を指摘していました。要するに、欲しければまず与えろ、パスが欲しければパッサーになれ、という逆説で考えれば、「人に何かを伝えたかったら、まず自分が何かを受け取れ」ということになります。

 ここまで見てきて「え? 師の人間性については?」という声が聞こえてきそうです。
 実は、今まで想定していた(1)や(2)というのは、どちらかというと短期的なもの、私法取引で言えば売買のような単発的なものを想定していました。
 が、師や弟子の人間性というのは、師弟関係の継続性(3)にかかるものだ、というのが私の考えです。
 著者は多田先生という高潔な人格の人を師に持てたため、この継続性の要件を意識せずに済んだのだと思います。これに対し、私は幸か不幸か人間性の最悪なボスの下で働いた経験から、この(3)を強く意識することができました(泣)。師弟関係も一つの人間関係ですから、それを継続できるかは当事者の人間性による部分が大きいと思います。
 弟子側の人間性ももちろん関係はしてくるでしょうが、この話は構造的に弟子が勝手に師匠と学ぶべき事を見出して勝手に学ぶものです。とすると、弟子が何かを学び取った後、そこに恩義を感じるかどうかは師匠の人間性も影響してきます。弟子は社交儀礼や体面から「師匠にはお世話になりました」ということはあるでしょうが、弟子にそう言わせるかどうかは師匠の人格・人間性によるところが大きいように思います。その意味で「○○はワシが育てた」的な発言というのは非常にみっともないことですし、去って行った弟子に対して「アイツは恩知らずだ!」と言うのは自分の人格その者に対してダメ出ししているのと同じことでもあります。

 ここで細かい点を付言しておくと、(1)の学び誘発の阻害要因として、師の人間性というものは多少影響します。わざわざ人間の腐った人から学ぼうとは思いません。しかし、人間性が腐っていたとしても、持っている知識や技術が学ぶ側に魅力的であれば、それでも学ぶ人は現れます。
 また、(2)の学ぶ意識が強ければ強いほど、(3)の人間性の悪さに対する許容量は広くなります。その最大級が「盲信」ではないかと。

 整理しますと、
・(2):学びは学ぶ側の(誤解を含めた)意思によって発生する。
・(1):師は学びを誘発することしかできない。そのためには弟子がほしがる知識・能力なりを備えるか、備えていると誤解させる必要がある。
・(1)(2):自分自身が学び続けないと、弟子は学び終わって去って行く。
・(3):師弟関係の継続は、当事者(特に師)の人間性による。

 これを前提とした上で、(2)についての議論を展開しているのが本書である、というのが私の理解です。