2019年7月18日木曜日

とりあえず三国志に謝ってほしい


篠田英朗『憲法学の病』を読んでいたら、思わず「ホンマかいな?」と目を疑うような記述が出てきた。
ただし、それでも憲法学では、「通説」「多数説」が非常に重視される特殊な政治文化があることは認識せざるをえない。非憲法学者の排斥、少数説をとる者への人格攻撃、権威主義的な多数派形成工作、マスコミに働きかけた世論工作などは、日本の憲法学に特有の傾向ではないだろうか。たとえば、集団的自衛権は違憲だという議論に疑義を呈した、山本一教授、藤田宙靖・元最高裁判所判事、大石眞・京都大学名誉教授、百地章・日本大学名誉教授らを、三国志に登場する敗北の武将たちになぞらえ、「酷い発言」「最低」「開き直り」などの言葉を投げつけつつ、自衛隊違憲論者でありながら長谷部・木村教授と大同団結した水島朝穂・早大教授や青木未帆・学習院大学教授らを、赤壁の戦いに駆け付けた「英傑」と呼ぶのは、木村草太「集団的自衛権の三国志演義」全国憲法研究会(編)『憲法問題28』(三省堂、2017年)。
注釈の中でサラッと触れられているだけだが、本当なら酷い話である。
読書の手を止め、早速この論文を取り寄せて読んでみた。


 …いや、ホント酷いわ、コレ。

まず読んで驚いたのが、本当に、三国志になぞらえて批判対象に袁術・李傕・董卓・呂布といった暴虐を尽くして滅んだ悪役武将のレッテルを貼っていることだ。

当人は面白いと思ってのことだろうけど、ネタとしてはスベっているし、こんなノートの中で嫌いな奴の悪口を書いてる根暗なインテリ小学生の如き性根を見せられる方の身にもなってほしい。それ以前にただただ無礼なだけだ。

しかもこれを面白いと思って公表しているわけで、自分が同級生をいじめている様子をわざわざ動画に撮って動画サイトにアップしているガキのようなイタさまで感じさせられた。

一方で、自分たちを三国志演義の善玉・蜀になぞらえている。それを恬として恥じないメンタリティにはある意味脱帽であるが、その”無邪気さ”に、読んでいるこっちが恥ずかしくなってきた。

要するに、(いくら講演をまとめたものとはいえ)大学教授が真面目な論文雑誌で載せるにはあまりに品がない、と言わざるを得ない。

本人はこの三国志ネタがえらく気に入ったようで、芸人風に言えばあちこちで舞台にかけながら練っていたようである
おそらくこれを講演で聴けばそれなりに笑えたのかもしれない。
が、ラジオの毒舌を書き起こすと、ただただ酷いことを言っているだけにしか読めないのと一緒で、講演(語り)と文章では面白みの伝え方も違うし、受ける印象だってもちろん変わってくる。
この講演を元にした「集団的自衛権の三国志演義」は比喩が面白く伝わるという一番大事な部分が欠落した、ただただ無礼と自己満足が横溢した文章に成り果てている。


比喩に関してもう少し言うと、一応なぞらえている理由らしきものが一行ほど書かれてはいるが…袁術って「極度の人間不信から三国志の登場人物のほとんどを敵に回した」んだっけ? 三国志演義にこじつけようとするあまり、三国志の登場人物までよくわからないことになっていて、三国志ファンとしては余計な比喩のせいで逆に混乱させられた。

前半の《内容以前の問題点》が後から取って付けたようなこじつけにしか見えないのは、おそらく、この三国志ネタが、自分たち(個別的自衛権合憲論者)と自衛権違憲論が大同団結して集団的自衛権の限定容認論を打ち破った!という着想から膨らましたからだろう。
それにしたって政府解釈である集団的自衛権の限定容認論を魏になぞらえるので話がややこしくなる。憲法学界では集団的自衛権の限定容認論は圧倒的少数説なんじゃないの? 日本政府が取っている説だから「正当性はないが巨大な勢力」ということで魏なの? 憲法学界の議論状況を理解しようとしたとき、理解の助けとなるはずの三国志の比喩が一々邪魔になった。


キヨミズ准教授の法学入門』が素晴らしかっただけに、この論文(?)は心底残念でならない。

2019年4月29日月曜日

[紹介] 荻上チキ『すべての新聞は「偏って」いる』

荻上チキ『すべての新聞は「偏って」いる』

一見すると、親しみやすい現代的なメディア論である。
が、中身は驚くほど古色蒼然としたメディア観で、著者が想定しているであろう批判対象(ある意味読者対象)が抱いている疑問に全く答えていない。
これほど読んでいて隔靴掻痒の感を抱き続け、読み終わって肩すかしを食らったと感じた本も珍しい。

著者は所謂ネトウヨ(ネット右翼)層に見られる、アンチ朝日新聞だったりアンチマスメディアだったりするスタンスへの批判を念頭に、本書を執筆したと思われる。
(なお、殊更ヘイトをぶちまけている層はここでの議論対象に含まない。念のため付言しておく)
そのアンチマスメディア層が抱いているメディア不信を具体的に言うと以下の二つに集約される。

  1. 新聞(やテレビといったマスメディア)は特定のイデオロギーが先にあって、時には事実無根の記事で他者を批判したりもするが、報道機関に求められるのは客観的な情報の提供であり、変な色をつけた報道をするな。
  2. 政権を監視する力を有するマスメディアそれ自体が権力であるが、そのマスメディア権力が国民からの監視や批判を拒絶している。その結果暴走しているのがマスメディア権力だ。


これに対して著者はどう答えているか。

1に対しては、報道においては事実の取捨選択から、編集という過程を経ており、そこには報道に携わった人間のバイアスが必然的に介在する。つまり、全てのメディアは「偏って」いるのであり、中立公正・無色透明な報道などあり得ない、と大上段の議論で切って捨てている。
確かに、著者の言っていることは間違いではない。客観的な事実・情報など存在し得ないであろう…究極的には。

しかし、アンチマスメディア層が言っているのはそこまで突き詰めた話ではない。
「内容の吟味や議論は情報の受け手でやるから、報道機関はそのベースとなる情報を提供しろ。
議論の基礎となる事実は議論する全ての人間が土台とできるものであり、そこに嘘や間違い、偏りがないように最大限の配慮をするのが報道を担うプロたるマスメディアにまず求められていることだ」
自分たちのイデオロギーが先にあり、政権与党の不祥事や問題はガンガン批判するが、野党議員の不祥事に話が及びそうになると途端に触れなくなる(例、東京医大裏口入学問題)など、国民に広く提供すべき情報を自分たちの主義主張に合わせてコントロールする。
もっと酷いものになると事実無根の「疑惑」を騒ぎ立てるだけ騒ぎ立て、しかも疑惑を向ける相手方に「国民が納得のいくような丁寧な説明をしろ」と悪魔の証明を求めさえする(加計学園獣医学部設置「問題」)。
これは「全てのメディアは偏っている」で片付ける問題ではない。

無色透明なメディアというのはないのかもしれない。
中立というのも現実には望めないのかもしれない。
しかし、自らの主義主張よりもまずは事実を優先して報道する「公正さ」を求めることは本当にあり得ないのだろうか。
さしあたり、公正さを求める指標としては「交替可能性/交換可能性」のテストが有用であろう。
交替可能性/交換可能性のテストとは、ここでは相手方を非難する言論が、立場を入れ替えてもなお主張しうるのかという論者の態度についてのテストである。メディアの報道姿勢について言えば、非難対象が自分たちに対して敵対する側(政権与党側)か近しい側(野党側)かで扱いを変えない、ということもあるだろう。
上記の例で言えば、東京医大裏口入学問題に関与していたのが野党議員でなく与党議員であっても、報道において同じ扱いをするのか、ということである。この点、新聞やテレビが不信と侮蔑をもって「オールドメディア」と呼ばれているのは、「権力の監視がメディアの役目だ」という些か古びたお題目のもと、政権与党側に辛く野党側に甘いダブルスタンダードをとっているからだろう。当然、ここには交替可能性/交換可能性など認められない。

本書では、ネットで「オールドメディア」が批判されているこういった点に全く触れられていない。
体裁こそ今風で読みやすくわかりやすそうで、その実中身は恐ろしい程に時代遅れで、古色蒼然と言って良いくらいに古い議論水準にとどまっているように感じられる一因はここにある。

2についても基本的には同じ構造である。
著者は、国家と国民(含むメディア)の対立関係を「縦の関係」とし、ネットのデマなど新しいメディアによる現代的な問題を「横の関係」と捉えて説明している。
が、ここにすっぽり抜け落ちているのが新聞・テレビといった巨大メディア・マスコミである。
縦の関係においては「権力を批判するのがメディアの使命だ!」と国民側に立ち、横の関係においては「ネットでデマを流すのはネットユーザー」と国民相互の問題としてそこからマスコミはするっと抜けているのである。
「権力を批判し、時には政権すらペンの力で打倒する」マスコミは、自身が巨大な力を有していることは明白で、マスコミが事実上の第四権力ともいわれるのはこの故である。
が、著者は本書の中で新聞を「第4の力」と呼んでいる。マスコミのもつ権力性をさらっとごまかしているようで、著者の書きぶりに姑息な印象を受けた。
情報を独占し、自分に都合の良いように編集して大々的に報道し、世論を形成する。時には政権すら倒す、そんな組織が国民から見て国家権力に比肩する「権力」である、という認識が本書からは決定的に欠落している。
ネットのデマをもってインターネットが危うく信用ならないメディアであることも触れられているが、新聞・テレビというやつがいかに不勉強で、ろくな裏付けもとらずに適当な記事を書き飛ばしてきたかに思いを致すと、デマに対する反論もわき上がるネットの方がよほど健全だと私は思う。

ネットの登場により、新聞・テレビといったマスコミのいい加減さが白日の下に晒され、事実上の「第四権力」にも監視が働き出した今、国家とマスコミ、マスコミと国民、そしてマスコミとネットという新たな関係性をどう捉え、どう考えるか。
我々は時代の転換点におり、新しいメディアとどう付き合っていくか…考えるべき事はたくさんあり、同時に知的好奇心も刺激される。
が、本書はそういう事共がほとんど視野に入っていない。これで「メディア論」と言われてもねぇ…と読み終わって肩を落とした。

2019年3月26日火曜日

事実は教室事例よりも奇なり

あれは大学1回生のときでした。
後期授業が始まった頃でしたか、刑法総論のテーマが因果関係についてでした。

刑法上の因果関係の議論とは、行為と結果との間に因果関係が認められるかについての議論を言います。
例えば殺人罪の場合、Xが殺意を持って人を刺すという「行為」があって、刺されたYが死ぬという「結果」があったときに、殺人罪が成立するためにはその行為から結果が発生したという「因果関係」が必要となります。XがYを刺した傷が致命傷でこれによりYが死亡した場合は因果関係が認められますが、XがYの腹部を刺した直後にゴルゴ13がYの頭部を狙撃して即死させた場合、Xの行為とY死亡の間の因果関係は否定されます(この場合、Xは殺人の実行行為に出て殺人の結果が発生していないとして殺人「未遂」となります)。

刑法上の因果関係が認められるかについては条件公式、すなわち「あれなくばこれなし」で判断する、とまず習います。
が、ここからが刑法パズルのはじまりで、「こういう場合にどうするの?」という事例が次々と登場します。
その一つが択一的競合。それそれが独立して既遂結果を発生させる行為がたまたま重なって作用したときに、各行為者に因果関係を認めることができるか、という議論です。
典型例として、AのコーヒーにBとCがそれぞれ殺意をもって致死量の毒を入れ、それを飲んだAが死亡した場合(ただし、BとCは意思の連絡が無く共犯が成立しないものとする)が挙げられますが、この事例において条件公式からはBとCに因果関係を認めることができません。なぜなら、Bが毒を入れなくてもCの入れた毒によりAは死亡してるので「あれなければこれなし」と言えないからです(Cも同様)。

ただ、実際に人を死なせる行為により人が死んでいるのに既遂結果を認めないというのには違和感を覚えます。
これはBCが入れた毒が致死量の半分だけだった場合(重畳的因果関係)と比較すると更に顕著になります。
この場合、BもCも毒を入れないとA死亡という結果が発生しないことから、BC共に「あれなくばこれなし」と言え、因果関係が認められることになります。
毒の量と殺意を単純に比例関係で考えることはできませんが、致死量の半分の毒で殺人罪の因果関係が肯定され、その倍の致死量の毒を入れた場合に殺人罪の因果関係が否定されるというのは、感覚的に納得できないのではないでしょうか。
実際そう考える刑法学者も多く、因果関係を認めるか認めないかで意見が分かれています。

択一的競合について、あくまで条件公式を守り、BもCも因果関係が認められず未遂とする説もあります(論理結合説)。
これに対し、私が学んだ先生は条件公式そのものが不完全であり、条件公式を放棄して別の判断基準によるべきだとされていました(合法則的条件関係説)。
一方で、条件公式の不完全性を認め、条件公式を修正する見解もあります。択一的競合の場合、BC両方を取り除いたときにA死亡の結果が発生していないのであればBC共に因果関係が認められる、とするのです。
これに対して先生が講義の中で批判を展開しました。
「ここに隣で新聞を読んでいるDがいるとします。この修正公式に従ってBCDを取り除いたらA死亡という結果は生じませんが、そしたらDにも(A死亡に対する)因果関係が認めらるんですか、君!」
先生は講義中、僕ら学生のところまで降りてきてマイクを向けて来られるのですが、そのマイクがやたら口元まで来たので物理的に答えにくかった覚えがあります。今から思えば背筋を伸ばさせるために敢えてそうしていたのかもしれませんが…。

講義後、先生にこんな質問をしました。
「致死量の毒を入れたB・Cの他に隣で新聞を読んでいたDがいた場合ですが、まずBCを取り除いてA死亡の結果があるか、次にCDを取り除き、最後にBDを取り除いて…と組み合わせで考えればDを除外できませんか?」
これに対し先生は、こう答えられました。
「確かにこの事例ではそれで解決できるかもしれないけれど、批判の眼目はそこじゃないんです。『この場合には結論が不当だから条件公式を修正する』という発想それ自体が結論ありきのものでしょう。そもそも条件公式は因果関係があるかないかを判断するための公式なのに、その公式によって出てきた答えがおかしいから公式の方を修正するって、それはもう公式の意味が無いじゃないですか。その辺をもうちょっと考えてみて下さい」
今思えば、これが大学で刑法を好きになるきっかけだったかもしれません。

そんなことを思い出したのは、ピエール瀧"メンバー"がコカイン使用で逮捕された後、電気グルーヴのCDが全て回収になったという報道に接したからです。
石野卓球さんがレコーディングしているのをお菓子食べながら眺めていただけでもCDが全回収になるって!
そのうち毒殺現場の隣で新聞読んでるだけで捕まる世の中になるんじゃねぇのか…と思った今日この頃です。

[Scrapbox]

2019年2月15日金曜日

世良のアコギ

一つのやり方がハマったとき、その手法を滅多矢鱈と濫用して失敗する、という意味の諺・慣用句ってって、ナントカの一つ覚えくらいしか知らないが、もっと良いのはないだろうか。

昔、NHKの「SONGS」に世良公則が出ていた。
今現在(その当時)行っているアコースティックギター一本でのパフォーマンスに変わったいきさつを語っていたのだが、本人のモノローグがふるっていた。
なんでも、コンサートツアーの若いスタッフだかが世良に「世良さんの音楽、聞いていて全然カッコいいと思わない。ダサい」みたいなことを直球で言ったらしい。
世良にとってこの言葉は相当ショックだったそうで、それからしばらく自分のスタイルを見つめ直し、模索したんだとか。
で、たどり着いたのがアンプラグド。そぎ落としたアコギ一本でのシンプルなパフォーマンス。
新しいスタイルでのコンサートが終わった後、件の青年が言ったそうだ。
「世良さん、格好良かったです!」と。

「ああ、そういうことやったんか!」
そのとき合点がいった。
2008年に音屋吉右衛門名義で野村義男と組み、リニューアルされたアニメ・ヤッターマンのOPをする。
そこで昔懐かしいヤッターマンのテーマをアコギ1本の弾き語りテイストで演奏。
作曲者にして元々OP曲を歌っていた山本正之に「デモテープかと思った」と酷評され、新旧のファンから批判を浴びた。
当時、何で元気いっぱいのヤッターマンのOPが、ワクワク感と対極の渋いロックテイストの弾き語りやねん、OPアニメにも全然合ってないやん! と思ったが、要はそういうことだったのだ。

一つの成功体験が、その後の失敗の原因となる…ナントカの一つ覚えではイマイチしっくりこないので、この故事から「世良のアコギ」という故事成語が生まれた…ことにしよう。

なお、デモテープかと思われたアコギバージョンの「ヤッターマンの歌」は予期せぬ炎上商法の結果、スマッシュヒットとなったそうである。