2019年7月18日木曜日

とりあえず三国志に謝ってほしい


篠田英朗『憲法学の病』を読んでいたら、思わず「ホンマかいな?」と目を疑うような記述が出てきた。
ただし、それでも憲法学では、「通説」「多数説」が非常に重視される特殊な政治文化があることは認識せざるをえない。非憲法学者の排斥、少数説をとる者への人格攻撃、権威主義的な多数派形成工作、マスコミに働きかけた世論工作などは、日本の憲法学に特有の傾向ではないだろうか。たとえば、集団的自衛権は違憲だという議論に疑義を呈した、山本一教授、藤田宙靖・元最高裁判所判事、大石眞・京都大学名誉教授、百地章・日本大学名誉教授らを、三国志に登場する敗北の武将たちになぞらえ、「酷い発言」「最低」「開き直り」などの言葉を投げつけつつ、自衛隊違憲論者でありながら長谷部・木村教授と大同団結した水島朝穂・早大教授や青木未帆・学習院大学教授らを、赤壁の戦いに駆け付けた「英傑」と呼ぶのは、木村草太「集団的自衛権の三国志演義」全国憲法研究会(編)『憲法問題28』(三省堂、2017年)。
注釈の中でサラッと触れられているだけだが、本当なら酷い話である。
読書の手を止め、早速この論文を取り寄せて読んでみた。


 …いや、ホント酷いわ、コレ。

まず読んで驚いたのが、本当に、三国志になぞらえて批判対象に袁術・李傕・董卓・呂布といった暴虐を尽くして滅んだ悪役武将のレッテルを貼っていることだ。

当人は面白いと思ってのことだろうけど、ネタとしてはスベっているし、こんなノートの中で嫌いな奴の悪口を書いてる根暗なインテリ小学生の如き性根を見せられる方の身にもなってほしい。それ以前にただただ無礼なだけだ。

しかもこれを面白いと思って公表しているわけで、自分が同級生をいじめている様子をわざわざ動画に撮って動画サイトにアップしているガキのようなイタさまで感じさせられた。

一方で、自分たちを三国志演義の善玉・蜀になぞらえている。それを恬として恥じないメンタリティにはある意味脱帽であるが、その”無邪気さ”に、読んでいるこっちが恥ずかしくなってきた。

要するに、(いくら講演をまとめたものとはいえ)大学教授が真面目な論文雑誌で載せるにはあまりに品がない、と言わざるを得ない。

本人はこの三国志ネタがえらく気に入ったようで、芸人風に言えばあちこちで舞台にかけながら練っていたようである
おそらくこれを講演で聴けばそれなりに笑えたのかもしれない。
が、ラジオの毒舌を書き起こすと、ただただ酷いことを言っているだけにしか読めないのと一緒で、講演(語り)と文章では面白みの伝え方も違うし、受ける印象だってもちろん変わってくる。
この講演を元にした「集団的自衛権の三国志演義」は比喩が面白く伝わるという一番大事な部分が欠落した、ただただ無礼と自己満足が横溢した文章に成り果てている。


比喩に関してもう少し言うと、一応なぞらえている理由らしきものが一行ほど書かれてはいるが…袁術って「極度の人間不信から三国志の登場人物のほとんどを敵に回した」んだっけ? 三国志演義にこじつけようとするあまり、三国志の登場人物までよくわからないことになっていて、三国志ファンとしては余計な比喩のせいで逆に混乱させられた。

前半の《内容以前の問題点》が後から取って付けたようなこじつけにしか見えないのは、おそらく、この三国志ネタが、自分たち(個別的自衛権合憲論者)と自衛権違憲論が大同団結して集団的自衛権の限定容認論を打ち破った!という着想から膨らましたからだろう。
それにしたって政府解釈である集団的自衛権の限定容認論を魏になぞらえるので話がややこしくなる。憲法学界では集団的自衛権の限定容認論は圧倒的少数説なんじゃないの? 日本政府が取っている説だから「正当性はないが巨大な勢力」ということで魏なの? 憲法学界の議論状況を理解しようとしたとき、理解の助けとなるはずの三国志の比喩が一々邪魔になった。


キヨミズ准教授の法学入門』が素晴らしかっただけに、この論文(?)は心底残念でならない。

2019年4月29日月曜日

[紹介] 荻上チキ『すべての新聞は「偏って」いる』

荻上チキ『すべての新聞は「偏って」いる』

一見すると、親しみやすい現代的なメディア論である。
が、中身は驚くほど古色蒼然としたメディア観で、著者が想定しているであろう批判対象(ある意味読者対象)が抱いている疑問に全く答えていない。
これほど読んでいて隔靴掻痒の感を抱き続け、読み終わって肩すかしを食らったと感じた本も珍しい。

著者は所謂ネトウヨ(ネット右翼)層に見られる、アンチ朝日新聞だったりアンチマスメディアだったりするスタンスへの批判を念頭に、本書を執筆したと思われる。
(なお、殊更ヘイトをぶちまけている層はここでの議論対象に含まない。念のため付言しておく)
そのアンチマスメディア層が抱いているメディア不信を具体的に言うと以下の二つに集約される。

  1. 新聞(やテレビといったマスメディア)は特定のイデオロギーが先にあって、時には事実無根の記事で他者を批判したりもするが、報道機関に求められるのは客観的な情報の提供であり、変な色をつけた報道をするな。
  2. 政権を監視する力を有するマスメディアそれ自体が権力であるが、そのマスメディア権力が国民からの監視や批判を拒絶している。その結果暴走しているのがマスメディア権力だ。


これに対して著者はどう答えているか。

1に対しては、報道においては事実の取捨選択から、編集という過程を経ており、そこには報道に携わった人間のバイアスが必然的に介在する。つまり、全てのメディアは「偏って」いるのであり、中立公正・無色透明な報道などあり得ない、と大上段の議論で切って捨てている。
確かに、著者の言っていることは間違いではない。客観的な事実・情報など存在し得ないであろう…究極的には。

しかし、アンチマスメディア層が言っているのはそこまで突き詰めた話ではない。
「内容の吟味や議論は情報の受け手でやるから、報道機関はそのベースとなる情報を提供しろ。
議論の基礎となる事実は議論する全ての人間が土台とできるものであり、そこに嘘や間違い、偏りがないように最大限の配慮をするのが報道を担うプロたるマスメディアにまず求められていることだ」
自分たちのイデオロギーが先にあり、政権与党の不祥事や問題はガンガン批判するが、野党議員の不祥事に話が及びそうになると途端に触れなくなる(例、東京医大裏口入学問題)など、国民に広く提供すべき情報を自分たちの主義主張に合わせてコントロールする。
もっと酷いものになると事実無根の「疑惑」を騒ぎ立てるだけ騒ぎ立て、しかも疑惑を向ける相手方に「国民が納得のいくような丁寧な説明をしろ」と悪魔の証明を求めさえする(加計学園獣医学部設置「問題」)。
これは「全てのメディアは偏っている」で片付ける問題ではない。

無色透明なメディアというのはないのかもしれない。
中立というのも現実には望めないのかもしれない。
しかし、自らの主義主張よりもまずは事実を優先して報道する「公正さ」を求めることは本当にあり得ないのだろうか。
さしあたり、公正さを求める指標としては「交替可能性/交換可能性」のテストが有用であろう。
交替可能性/交換可能性のテストとは、ここでは相手方を非難する言論が、立場を入れ替えてもなお主張しうるのかという論者の態度についてのテストである。メディアの報道姿勢について言えば、非難対象が自分たちに対して敵対する側(政権与党側)か近しい側(野党側)かで扱いを変えない、ということもあるだろう。
上記の例で言えば、東京医大裏口入学問題に関与していたのが野党議員でなく与党議員であっても、報道において同じ扱いをするのか、ということである。この点、新聞やテレビが不信と侮蔑をもって「オールドメディア」と呼ばれているのは、「権力の監視がメディアの役目だ」という些か古びたお題目のもと、政権与党側に辛く野党側に甘いダブルスタンダードをとっているからだろう。当然、ここには交替可能性/交換可能性など認められない。

本書では、ネットで「オールドメディア」が批判されているこういった点に全く触れられていない。
体裁こそ今風で読みやすくわかりやすそうで、その実中身は恐ろしい程に時代遅れで、古色蒼然と言って良いくらいに古い議論水準にとどまっているように感じられる一因はここにある。

2についても基本的には同じ構造である。
著者は、国家と国民(含むメディア)の対立関係を「縦の関係」とし、ネットのデマなど新しいメディアによる現代的な問題を「横の関係」と捉えて説明している。
が、ここにすっぽり抜け落ちているのが新聞・テレビといった巨大メディア・マスコミである。
縦の関係においては「権力を批判するのがメディアの使命だ!」と国民側に立ち、横の関係においては「ネットでデマを流すのはネットユーザー」と国民相互の問題としてそこからマスコミはするっと抜けているのである。
「権力を批判し、時には政権すらペンの力で打倒する」マスコミは、自身が巨大な力を有していることは明白で、マスコミが事実上の第四権力ともいわれるのはこの故である。
が、著者は本書の中で新聞を「第4の力」と呼んでいる。マスコミのもつ権力性をさらっとごまかしているようで、著者の書きぶりに姑息な印象を受けた。
情報を独占し、自分に都合の良いように編集して大々的に報道し、世論を形成する。時には政権すら倒す、そんな組織が国民から見て国家権力に比肩する「権力」である、という認識が本書からは決定的に欠落している。
ネットのデマをもってインターネットが危うく信用ならないメディアであることも触れられているが、新聞・テレビというやつがいかに不勉強で、ろくな裏付けもとらずに適当な記事を書き飛ばしてきたかに思いを致すと、デマに対する反論もわき上がるネットの方がよほど健全だと私は思う。

ネットの登場により、新聞・テレビといったマスコミのいい加減さが白日の下に晒され、事実上の「第四権力」にも監視が働き出した今、国家とマスコミ、マスコミと国民、そしてマスコミとネットという新たな関係性をどう捉え、どう考えるか。
我々は時代の転換点におり、新しいメディアとどう付き合っていくか…考えるべき事はたくさんあり、同時に知的好奇心も刺激される。
が、本書はそういう事共がほとんど視野に入っていない。これで「メディア論」と言われてもねぇ…と読み終わって肩を落とした。

2019年3月26日火曜日

事実は教室事例よりも奇なり

あれは大学1回生のときでした。
後期授業が始まった頃でしたか、刑法総論のテーマが因果関係についてでした。

刑法上の因果関係の議論とは、行為と結果との間に因果関係が認められるかについての議論を言います。
例えば殺人罪の場合、Xが殺意を持って人を刺すという「行為」があって、刺されたYが死ぬという「結果」があったときに、殺人罪が成立するためにはその行為から結果が発生したという「因果関係」が必要となります。XがYを刺した傷が致命傷でこれによりYが死亡した場合は因果関係が認められますが、XがYの腹部を刺した直後にゴルゴ13がYの頭部を狙撃して即死させた場合、Xの行為とY死亡の間の因果関係は否定されます(この場合、Xは殺人の実行行為に出て殺人の結果が発生していないとして殺人「未遂」となります)。

刑法上の因果関係が認められるかについては条件公式、すなわち「あれなくばこれなし」で判断する、とまず習います。
が、ここからが刑法パズルのはじまりで、「こういう場合にどうするの?」という事例が次々と登場します。
その一つが択一的競合。それそれが独立して既遂結果を発生させる行為がたまたま重なって作用したときに、各行為者に因果関係を認めることができるか、という議論です。
典型例として、AのコーヒーにBとCがそれぞれ殺意をもって致死量の毒を入れ、それを飲んだAが死亡した場合(ただし、BとCは意思の連絡が無く共犯が成立しないものとする)が挙げられますが、この事例において条件公式からはBとCに因果関係を認めることができません。なぜなら、Bが毒を入れなくてもCの入れた毒によりAは死亡してるので「あれなければこれなし」と言えないからです(Cも同様)。

ただ、実際に人を死なせる行為により人が死んでいるのに既遂結果を認めないというのには違和感を覚えます。
これはBCが入れた毒が致死量の半分だけだった場合(重畳的因果関係)と比較すると更に顕著になります。
この場合、BもCも毒を入れないとA死亡という結果が発生しないことから、BC共に「あれなくばこれなし」と言え、因果関係が認められることになります。
毒の量と殺意を単純に比例関係で考えることはできませんが、致死量の半分の毒で殺人罪の因果関係が肯定され、その倍の致死量の毒を入れた場合に殺人罪の因果関係が否定されるというのは、感覚的に納得できないのではないでしょうか。
実際そう考える刑法学者も多く、因果関係を認めるか認めないかで意見が分かれています。

択一的競合について、あくまで条件公式を守り、BもCも因果関係が認められず未遂とする説もあります(論理結合説)。
これに対し、私が学んだ先生は条件公式そのものが不完全であり、条件公式を放棄して別の判断基準によるべきだとされていました(合法則的条件関係説)。
一方で、条件公式の不完全性を認め、条件公式を修正する見解もあります。択一的競合の場合、BC両方を取り除いたときにA死亡の結果が発生していないのであればBC共に因果関係が認められる、とするのです。
これに対して先生が講義の中で批判を展開しました。
「ここに隣で新聞を読んでいるDがいるとします。この修正公式に従ってBCDを取り除いたらA死亡という結果は生じませんが、そしたらDにも(A死亡に対する)因果関係が認めらるんですか、君!」
先生は講義中、僕ら学生のところまで降りてきてマイクを向けて来られるのですが、そのマイクがやたら口元まで来たので物理的に答えにくかった覚えがあります。今から思えば背筋を伸ばさせるために敢えてそうしていたのかもしれませんが…。

講義後、先生にこんな質問をしました。
「致死量の毒を入れたB・Cの他に隣で新聞を読んでいたDがいた場合ですが、まずBCを取り除いてA死亡の結果があるか、次にCDを取り除き、最後にBDを取り除いて…と組み合わせで考えればDを除外できませんか?」
これに対し先生は、こう答えられました。
「確かにこの事例ではそれで解決できるかもしれないけれど、批判の眼目はそこじゃないんです。『この場合には結論が不当だから条件公式を修正する』という発想それ自体が結論ありきのものでしょう。そもそも条件公式は因果関係があるかないかを判断するための公式なのに、その公式によって出てきた答えがおかしいから公式の方を修正するって、それはもう公式の意味が無いじゃないですか。その辺をもうちょっと考えてみて下さい」
今思えば、これが大学で刑法を好きになるきっかけだったかもしれません。

そんなことを思い出したのは、ピエール瀧"メンバー"がコカイン使用で逮捕された後、電気グルーヴのCDが全て回収になったという報道に接したからです。
石野卓球さんがレコーディングしているのをお菓子食べながら眺めていただけでもCDが全回収になるって!
そのうち毒殺現場の隣で新聞読んでるだけで捕まる世の中になるんじゃねぇのか…と思った今日この頃です。

[Scrapbox]

2019年2月15日金曜日

世良のアコギ

一つのやり方がハマったとき、その手法を滅多矢鱈と濫用して失敗する、という意味の諺・慣用句ってって、ナントカの一つ覚えくらいしか知らないが、もっと良いのはないだろうか。

昔、NHKの「SONGS」に世良公則が出ていた。
今現在(その当時)行っているアコースティックギター一本でのパフォーマンスに変わったいきさつを語っていたのだが、本人のモノローグがふるっていた。
なんでも、コンサートツアーの若いスタッフだかが世良に「世良さんの音楽、聞いていて全然カッコいいと思わない。ダサい」みたいなことを直球で言ったらしい。
世良にとってこの言葉は相当ショックだったそうで、それからしばらく自分のスタイルを見つめ直し、模索したんだとか。
で、たどり着いたのがアンプラグド。そぎ落としたアコギ一本でのシンプルなパフォーマンス。
新しいスタイルでのコンサートが終わった後、件の青年が言ったそうだ。
「世良さん、格好良かったです!」と。

「ああ、そういうことやったんか!」
そのとき合点がいった。
2008年に音屋吉右衛門名義で野村義男と組み、リニューアルされたアニメ・ヤッターマンのOPをする。
そこで昔懐かしいヤッターマンのテーマをアコギ1本の弾き語りテイストで演奏。
作曲者にして元々OP曲を歌っていた山本正之に「デモテープかと思った」と酷評され、新旧のファンから批判を浴びた。
当時、何で元気いっぱいのヤッターマンのOPが、ワクワク感と対極の渋いロックテイストの弾き語りやねん、OPアニメにも全然合ってないやん! と思ったが、要はそういうことだったのだ。

一つの成功体験が、その後の失敗の原因となる…ナントカの一つ覚えではイマイチしっくりこないので、この故事から「世良のアコギ」という故事成語が生まれた…ことにしよう。

なお、デモテープかと思われたアコギバージョンの「ヤッターマンの歌」は予期せぬ炎上商法の結果、スマッシュヒットとなったそうである。


2018年11月17日土曜日

権利保障の解除規定?

橋下徹・木村草太『憲法問答』(後掲参考文献①。以下番号のみで表します)を読んでいると、木村先生が語る国民の義務についての解説で「?」となりました。

橋下 僕の持論としては、憲法は国に義務を課するものであって、国民に義務を課すべきじゃないと考えています。日本国憲法には、国民の義務として「納税の義務」「教育を受けさせる義務」「勤労の義務」の3つが定められていますよね。でもそれらの義務も憲法に書く話じゃないと思うんです。
木村 憲法学における前提を押さえておくと、憲法典に書かれた国民の義務は、権利保障を解除するためにあります。
 まず「納税の義務」。憲法は財産権を保障していますから、納税の義務を定めておかないと、「税金をとるのは、財産権侵害だ。正当補償がなければ税金なんて払わない」との主張ができることになりかねません。極端な例ですが、「国民から100万円の所得税をとるには、100万円を正当補償として支払わなければならない」なんてことをしていたら税金の意味がありません。だから、納税の場面では財産権を解除しますよ、と納税の義務を規定しているんですね。
「教育を受けさせる義務」も、親の思想、信教の自由を解除するものです。日本だとあまり問題になりませんが、アメリカでは、キリスト教原理主義の親が「進化論を教える学校に行かせない」という選択をすることがあるんです。ですから、子どもの公教育の場面では、思想・良心の自由、信教の自由はシャットアウトさせてほしいと考えている。
「勤労の義務」は、制定当初いろいろな理解があったそうですが、今は生活保護の場面で重要になります。生活保護法で「常に、能力に応じて勤労に励み」と書かれているのは労働の機会と能力が十分にあるのならば、生活保護に頼らないでほしいという考えからです。このことを正当化するために勤労の義務がある、とオーソドックスな教科書には書かれています。
橋下 でも権利保障の解除、すなわち国民の権利が制限される場面は、世の中にいくらでもありますよね。そこで憲法は「公共の福祉」という概念で、国民の権利を制限する理屈を考えているのではないですか。国民に向けた義務規定が憲法になくても、権利保障の解除はできるはずです。
木村 「公共の福祉」の代表的な場面である国民の間の権利調整の場合、たとえば、芸能人の不祥事報道でたびたび問題となるような、マスメディアの報道の自由と個人のプライバシー権をどう調整するかといった問題については、国家は、自分の権利を行使しようとしているのではなくて、国民の権利を守るという義務を果たすための、調整役に徹していると見ることもできる。でも、納税・教育・勤労については、国家と国民の間に、直接の利害対立があるので、憲法にあえて書いておいた、ということだとは思います。
 憲法は国家を縛るものだから義務規定は必要ない、という考え方もありうるのだろうとは思います。たとえば、納税は、「公共サービスを受ける権利」と「財産権」とを調整するものとして説明することもできるでしょう。ただ、そういうことを言っていくと、かなり抽象的な権利を根拠に、憲法が保障する権利が制約されかねない。そこで、日本国憲法の制定者は、特にこの3つだけは義務として明示し、権利保障を解除しておく選択をとったのだと思います。
(① 位置No.368以下)
「憲法学の前提」って、こんな話、聞いたことないぞ…

いや、確かに大学生の頃、憲法の講義なんて真面目に出ていなかったし、憲法の教科書や概説書も、試験にまず出ない国民の義務なんて読み飛ばしていました。

ただ…本書の中で橋下氏も言及されていましたが、私は「憲法とは国家が守るべきルールを定めた法であり、国家権力を縛るためのものだから、国民の義務なんて書き込まなくていい」という感覚をもっていました。
ですから、木村先生のような解説を見聞きしていれば、絶対引っかかっているはずなんです。スルーしてたなんてまず考えられません。

このことが気になって読書が先へ進まないので、自宅や図書館にある憲法の本を調べてみました(後掲参考文献②~⑦)。

国民の義務の意義


まずは、かつて国家資格試験の"国定教科書"と言われていた芦部憲法(②)から。
(入手の便宜を考え、画層での紹介は最新版にしておきます。以下同じ)

故・芦部先生と言えば、今をときめく片山さつき大臣がかつて「芦部先生の直弟子だ」と発言し、法クラ(法学クラスタ、簡単に言えば法学集団、法学ファンくらいの意味)からフルボッコに批判された、なんてこともありましたが、それはさておき。

芦部憲法にはそもそも「国民の義務」自体が関連項目の中でサラッと触れられていただけで(258頁、261頁)、そもそも立項すらされていませんでした(!)。

木村先生の理解にそぐわない扱いなんですが、芦部憲法と言えば薄いので有名で、「芦部の行間を読め!」なんて言われたりもしたものです。
もしかしたら炙り出しにでもなっているのかもしれませんが、度胸がないのでライターで炙って確認するまではできませんでした。

次に、二分冊の大部で、何でも載ってると言われる辞書的なテキスト、通称「四人組」の憲法を見てみます(③)。


この本は芦部先生ほか高名な憲法学者の"本物の"直弟子で、先生方も高名な憲法学者である四人の先生方が書かれたもので、芦部の行間を埋めてあまりあるほど網羅的に記述がなされており、オーソドックスな見解はほぼ載っているはず。
 一 義務規定の意義
 …明治憲法の…人権保障は、生来の人権という考え方からは遠く、むしろ実際の運用においては、国民の国家に対する義務の方が強調される傾向にあった。これに対して日本国憲法の人権保障規定は、生来の人権を強く保障しようとするものであり、国民の義務の強調には本来なじまない性質のものである。
 もともと近代憲法の人権保障体型は、人の生来の自由や権利の名において、国家が国民を支配する限界を示そうとするものであった。国家はその一般的統治権に基づいて、人権の相互調整や福祉の増進のために、国民に対してさまざまな義務を課すことができるが、それは法の支配の原理に基づき、国会の立法によることが必要であり、しかも国民の憲法上の権利を侵害しない範囲にとどまらなければならない、ということこそが立憲主義の要請である。国家のなかでの国民の義務は、そのような限度で一般的には法令遵守義務として存在し、法令の個別の定めによって具体化されるものであり、ことさら憲法の人権保障規定の中で規定することの意義は乏しいと言わなければならない。国民の憲法上の義務を定めているのは、…具体的な法的義務を定めたものではなく、一般に国民に対する倫理的指針としての意味、あるいは立法による義務の設定の予告という程度の意味をもつにとどまっている。
(③ 533頁以下)
最後の一文の「義務の設定の予告」というのが権利保障の解除を言っているように解せなくもないですが、一読してこれが立憲主義的意味の憲法にてらして国民の義務規定というのは本質的にそぐわないものであること、従って国民の義務規定に実質的意義をあまり認めない方向で解釈がなされているのが読み取れます。
少なくとも国民の義務規定が権利保障の解除のために必要だというロジックは示されていません。

佐藤幸治先生の概説書(④)でも「国民の義務の種類・内容については、憲法に特に定めなければならないということはないが…」(169頁)と同じ論調の記述がなされています。


伊藤正己先生の概説書(⑤)や入門書(⑥)も法的意味を縮小して解しています。

『憲法入門』(⑥)の方から引きます。
…ただ注意しなければならないことは、近代憲法の核心は、憲法によって国家権力を制約するところにあるから、人権の保障によってそのような制約的機能を定めることは、憲法の本質的部分であるが、義務の規定はそのような意味をもたない。それは、あるいは国民に倫理的指示を与え、あるいは法律によって具体化されることを予定するものであり、それ自身として法的意味が大きくないというべきである。
(⑥ 127頁以下)
今、確認できる範囲では国民の義務規定が権利保障を解除するための規定だとする記述は見つけられません。
③を除いては世代的に一昔前になるので、最近の憲法の教科書ではこういう説明がなされている可能性は否定できませんが、少なくとも「権利保障解除規定説」は昭和の憲法学会におけるスタンダードな理解ではない、と断言することはできそうです。

そもそも、こんな解釈が一般的なら、絶対③や④に載ってないわけないんだよなぁ…

個人的には、この権利保障解除規定説は木村先生の独自説の域を出ないのではないかと思っています。
(寡聞にして他に権利保障解除規定説を採る先生がいらっしゃるのを知りませんが、私の知らない多くの憲法学者がこの説を採って国民の義務規定がないと権利保障の衝突を回避しづらいと考えていらっしゃるのかもしれません。非常に考えづらいのですが…)

なお、最近の教科書として安西・巻・宍戸『憲法学読本』(⑦)を確認したところ、国民の義務自体が触れられてもいませんでした!(索引にも載っていませんでした!)。


子女に教育を受けさせる義務の意義


具体的義務規定についても見ておきましょう。

子女に教育を受けさせる義務(憲法25条2項前段)については、以下のような説明がなされています。
これは、第一項の「教育を受ける権利」を実質化するための義務の定めであり、したがって国民のこの義務は、形式的には国家に対するものであるが、実質的にはその保護する子女に対するもの(注1)だということができる。
(注1) 最高裁もこの点につき、「単に普通教育が民主国家の存立、繁栄のため必要であるという国家的要請だけによるものではなくして、それがまた子女の人格の完成に必要欠くべからざるものであるということから、親の本来有している子女を教育すべき義務を完うせしめんとする趣旨に出たもの」と判示している(最大判昭和三九年二月二六日民集一八巻二号三四三頁)。
(③ 535頁、同旨④ 170頁以下)
日本国憲法においては、民主主義が基盤となっており、民主国家の存立や繁栄のために教育が重要であること、さらに、国家の構成員である国民自身の人格形成のためにも教育が必要であるということからとくに教育の義務を定めている。
(⑤ 410頁)
歴史的に見れば、子供は農家の働き手だったり子守だったりと労働力として使われ、学校へ行かせてもらえないということが(特に田舎の農村部では)かつてはざらにあったわけです。
今でも発展途上国などではよく見受けられる風景です。

子女に普通教育を受けさせる義務というのは、こういったことを念頭において置かれてきた規定であり、憲法26条2項前段は、明治憲法下で臣民の三大義務の一つとして規定されてきた伝統を引き継いで置かれた規定だと考えるのが一般的だと思われます。
(なお、教育の義務については、明治憲法下では勅令により定められていたそうです(③ 533頁))

木村先生の言う親の思想・良心の自由や信教の自由を解除するためという話は、現代的にそういう意義を新たに読み込む必要性があり、解釈上そう読み込むことが可能である、という話ならまだ一定程度理解できそうではあります。
しかし、それでも今のところは木村先生が思いついた独自説という感が拭えません。
「押しつけ憲法論」ではないですが日本国憲法制定過程にGHQがかかわっていますので、一応、GHQ案起草者らが「アメリカのキリスト教原理主義者が…」の事例も念頭に置いて憲法26条2項前段を置いた可能性も否定はできませんが(私もそこまで日本国憲法制定史を確認したわけではないので)、正直それも考えづらい話だと思います。
やはり、それ相応の意義があるのであれば、それが今日木村先生が言い出すまで著名な憲法学者の概説書で全く触れられないなんて考えづらいですから。

勤労の義務の意義


これに関しては木村先生の説明通りです。

ただ、オーソドックスな教科書を見る限り、権利保障解除規定説にのっとり、勤労の義務が規定されていないと生活保護法で、勤労の能力と機会があるのに働かない人に生活保護を受給させないことを正当化できない、とまで考えてはいないようにも見受けられます。

伊藤先生などは、「要するに、働く能力のある者は、自己の勤労によって社会で生活を維持し、時には社会に貢献すべき道徳的規範を定めているにすぎない。ただし、実定法のなかにこの勤労の義務の趣旨が現れている場合があるが、それは社会国家的給付に内在する当然の条件である」(⑤ 410頁)と抽象的な権利を根拠にすることすらなく、生活保護受給という社会権の内在的制約を認めています。
伊藤先生の考えが100%正しいなんて盲目的に主張するつもりはありませんが、ここでも権利保障解除規定説が木村先生の独自説に過ぎないのではないかという印象を受けました。

納税の義務の意義


納税の義務(憲法30条)については、「国民主権国家においては、国民の納める税金によってのみ国家の財政が維持され、国家の存立と国政の運営が可能となることからして、国民の当然の義務と解されている」(③ 537頁)そうで、憲法30条は「当然の義務(liable)を明示するもの」(④ 171頁)と一般的に解されているようです。
伊藤先生に至っては、「租税が国家財政の維持に不可欠のものである以上、憲法の明文をまつまでもなく、国民が納税の義務を負うのは当然である」(⑥ 129頁)と明言されていて、権利保障解除規定を不要とする立場に立っています(というか、伊藤先生はそもそも権利保障の解除なんて考え方自体、念頭にも置いていないんでしょうけど)。

国家の徴税が国民の財産権を侵害し、両者がバッティングすというのは木村先生の言うとおりなのですが、だから「納税の義務を定めておかないと、「税金をとるのは、財産権侵害だ。正当補償がなければ税金なんて払わない」との主張ができることになりかね」ないというのは、上記の理解にてらしても無理筋な議論のように思われます。

ちなみに、アメリカ合衆国憲法では、連邦議会の権限として租税の賦課・徴収権限を認めています。
別に納税の義務を定めなくとも、議会の課税権という具体的な権利に基づいて国民の権利を制約する方法だって十分にあり得ます。
アメリカ合衆国憲法 
第8条[連邦議会の立法権限]
[第1項]連邦議会は、つぎの権限を有する。合衆国の債務を弁済し、共同の防衛および一般の福祉に備えるために、租税、関税、輸入税および消費税を賦課し、徴収する権限。但し、すべての関税、輸入税および消費税は、合衆国全土で均一でなければならない。
なお、木村先生自身が本書の別のところ(① No.359)で無理筋の議論に対しては、
もちろん、そうした解釈をする人も出てくるだろうとは思います。ただ、専門家から見たらありえないことを「こういう解釈も可能だ」と強弁する人がいるのは、ある意味仕方がない。そういう人は、無視するしかないはずです。
と切り捨てるべきだと発言しています。
申し訳ないのですが、木村先生の無理筋な議論も無視されるべき対象のように思われてなりません。

「憲法学における前提」って何?


橋下氏は、憲法が国家権力を縛る(制限し、統制する)ものだという本質から、それにそぐわない国民の義務規定は置かなくてもいいのではないか? という問いを発しています。

それに対し、木村先生の答えは一見「憲法論を精緻に突き詰め」(① No.395)た解説のように思われます。

が、よくよく調べると憲法学会のスタンダードな理解でもなければ、通説的見解に根ざした説明でもありません。
独自説を打ち出すのがダメだというつもりはありませんが、木村先生は「憲法学における前提」を押さえるとして上記の説明をなされました。
このような前置きをした上で、憲法学会の一般的・通説的な見解に基づくオーソドックスな説明を求められているところに、スタンダードでない独自見解で説明するというのは、いかがなものでしょう。
「一般的にはこう考えられています。が、私はこういう説明もできると考えています」と客観的に一般論や通説と独自説を切り分けて説明するのが解説者としての誠実さだと私は思うのですが…。


≪参考文献一覧≫
①橋下徹・木村草太『憲法問答』(徳間書店、2018年)kindle版
②芦部信喜・高橋和之補訂『憲法』(岩波書店、第四版、2007年)
③野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法Ⅰ』(有斐閣、第4版、平成18年)
④佐藤幸治『日本国憲法論』(成文堂、2011年)
⑤伊藤正己『憲法』(弘文堂、第3版、平成13年)
⑥伊藤正己『憲法入門』(有斐閣、第四版、1998年)
⑦安西文雄・巻美矢紀・宍戸常寿『憲法学読本』(有斐閣、第2版、2014年)