死んだ親父が、司馬遼太郎にハマるきっかけとなった短編集です。
表題にもなっている「王城の護衛者」は幕末の会津藩主・松平容保が主人公の作品。
会津松平家というのは、ほんのかりそめの恋から出発している。という出だしの一文からシビれました。
二代将軍・徳川秀忠はとにかく正室の達子(江)を恐れ続けた人で、側室を持たなかったそうなのですが、その生涯で一回だけ側女に手を付けました。
そのときの子が正之で、正之は兄である三代将軍家光に馴れず、謹厳実直に仕えました。
家光はそんな正之に絶大な信頼を寄せ、正之は後に大老までになります。
…と、正之の話が長くなりそうなので、詳しくは詳しくはみなもと太郎『風雲児たち』の2~4巻をお読み下さい。江戸城の天守閣を無くしたのも正之ですが、その理由が鳥肌モノのかっこよさなので、是非!
正之は「我が子孫たる者は将軍に対し一途に忠勤をはげめ。他の大名の例をもってわが家を考えてはならない。もしわしの子孫で二心をいだくような者があればそれはわしの子孫ではない。家来たちはそのような者に服従してはならない」という苛烈な遺訓を残しています。
が、この教えが、戊辰戦争での会津藩の悲劇に繋がっていくわけです…
京都守護職に就くこととなった会津藩は、悲壮の覚悟で上洛します。
上洛当時、白皙の美少年藩主に対する京都町衆の人気はかなり高かったようです。
そして荒れ果てた宮中の実態を知った容保は、間髪を入れず朝廷に金子を献上します。
その頃、庶民も避けるような粗末な食事をしていた孝明帝はこれに感激。
容保が献上した鮭が夕餉に出た際は何度も「これは容保の鮭か」と喜ばれ、食事後、近習の者に「鮭の皮は捨てるな。後で酒の肴にするから」と仰った、というエピソードが描かれています。
ただ、容保の行く末に陰りが見え始めるのはこの辺りから。京の治安を守るために新撰組が活躍をすればするほど、容保像もそれに伴って歪み始めます。
かれらが一人斬るたびに、その血しぶきは容保にかかった。容保の世間像はいよいよ魔王の像を呈し、その像は血のにおいがした。ただ、容保は孝明天皇から絶大な信頼を得ていました。それを表す究極のエピソードとして、孝明帝自らがしたためた容保への勅があります。
「朕は会津をもっとも頼みにしている。一朝有事のときにはその力を借らんと欲するものである」
会津藩主といえどもまだ若い容保が、この孝明帝からの手紙(密書)に感激したのは察するに余りあります。
ここまで信任厚かった容保と会津が、時流に翻弄され、気がつけば賊軍となり、会津若松城落城の悲劇に追い込まれるのです。もう読んでて切なくて切なくて…
明治以降の容保は静かにその余生を送ったようですが、容保は死ぬまで首から竹筒のようなものを下げていたそうです。その竹筒の中には…
ちなみに、この話には後日談があり、本作を読まれた秩父宮妃殿下(雍仁親王妃勢津子)が「今まで祖父は悪者扱いされていたが、初めて公平に書いてくれた」と司馬遼太郎に感謝されたというエピソードがあります。
他にも、この短編集は捨てる所なしの傑作揃いです。
・岩倉具視に半ば騙され(笑)、「錦の御旗」を作った(でっち上げた)玉松操を描いた「賀茂の水」
誰も見たことがない錦の御旗を作れって、何というプロジェクトX!
・大村益次郎という奇妙な個性と天才を描いた短編「鬼謀の人」
自分を冷遇してきた長州藩に対してそっけない態度をとる大村に対し、何も言えない桂小五郎。そのときの描写「口中の豆腐はいよいよ苦くなる」がツボです(笑)。
・長岡藩の家老・河井継之助の一生を描いた「英雄児」
わずか数万石の小藩が、その当時日本に数台しかなかったガトリング・ガンを二台備え付け、新政府軍にわざわざ喧嘩を売りに行き、長岡の城下ごと蜂の巣にしたってのは、不謹慎なんだけど爆笑してしまいました。
そんな武器をどうやって調達したかについてもふるっていて、江戸で買った米を函館で売り、差益で儲けていたそうで、司馬曰く「藩を挙げてブローカーのようなことをしていた」んだそうです(笑)
・岡田以蔵と武市半平太の複雑な関係性と感情のねじれを描いた「人斬り以蔵」
土佐の上士と郷士の身分差別解消を目指していた武市が、以蔵に対して屈折した差別意識を持っていたこと、そしてそれでも武市に懐く以蔵。
二人の関係性が妙にリアルで、読んでて辛くなるときもありました。
「賀茂の水」以外は『花神』『峠』あるいは『竜馬がゆく』の中で、と長編になったり、長編の中で扱われたりしています。
が、この短編では、これらの人物像がキャラクターとして絞り込まれており、際立った個性を確立しています。ある種極端とも言える描写もありますが、それも含めてとにかく面白い! 司馬遼太郎の長編が好きな方も、「長いのはちょっと…」と尻込みしている方も、是非お読みいただきたい一冊です!