2013年3月20日水曜日

[紹介] みなもと太郎『風雲児たち』(3巻)

母の教えを胸に、父や兄(徳川家)に忠義を尽くした保科正之。明暦の大火のときの対処はまさに名君と呼ぶべきもの。こういう人をこそ歴史の授業で取り上げるべき!後半の宝暦治水伝は、幕府による苛烈な薩摩いじめ!(crossreview

 大坂の陣はあっという間に終わり、豊臣が滅んだところで諸大名は世の中が変わったことを知ります。
大名らはやっと気づきはじめた……
日本史上かつてない巨大な力が
自分たちの上に君臨してしまったことを
もはや自分たちは
徳川家の飼い犬にすぎなくなりつつあることを……
豊臣征伐に執念を燃やし続けた家康が遂に世を去り、秀忠、家光と時代は流れていきます。
 そこで出てくるのが保科正之。
 徳川のために働けと言い聞かせた母と別れ、高遠藩の保科家に養子に行くことになります。
 長じて、将軍・家光と大御所・秀忠にお目見えすることになり、秀忠は静とその忘れ形見と再会します。ココも泣かせる話なんだよなぁ…。正之は、将軍の弟であることに馴れず、あくまで臣下として忠義を尽くすことを訳します。

 その後、松平姓を名乗ることを許され、会津二十三万石に転封された正之。これが幕末の悲劇を生む会津藩の誕生です。
 そして、家光臨終の際には、次の将軍・家綱の後見人となることを家光に託され、正之は大老となります。

 大老・正之は常に黒子に徹し、政治の華やかな部分は全て将軍や御三家の功績としています。その徹底ぶりは、自分が大老を辞する際に記録を焼却処分させたほど。奥ゆかしいにも程があります。
 そんな正之が一度だけ強権発動したのが明暦の大火(いわゆる振袖火事)です。十万人以上の犠牲者を出し、江戸城下はおろか江戸城の天守閣も灰燼に帰しました。
 このとき、正之は当時誰も考えつかなかったような対策を打ち出しています。例えば、幕府の米倉を全て開放し、好きなだけ持っていって良いことにしました。これにより、町人は火を消しながら米倉に殺到し、本来なら燃えてしまうはずだった米を持っていってくれ、消火後はそれが焼け出された民衆の食糧に早変わりします。
 そのほかにも、幕府の御用金を放出し、復興需要を当て込んで大もうけしようとする材木問屋や大工の手間賃その他一切の値上げを禁止します。江戸の町再興に際しては、区画整理をしつつ火除け地の確保もし、燃えにくい瓦屋根には援助を出すことまで決めます。大名火消しの制度を作ったのもこの時。
 そして何より圧巻なのは、幕閣の意見を排し、天守閣の再建をしなかったことです。天守閣で民を威圧する時代は終わったのであり、そんなものを作る金があったら江戸の町再興の予算に回すべきだとした正之。なかなか知られていませんが、これほどの名君は日本史を探してもそういるものではありません。

 誇り高き母の教えを守って徳川に忠義を尽くし、父・秀忠や兄・家光の思いを受けて立派に徳川の世を支えた正之は、会津家に家訓を遺して逝きます。
 その家訓は、「他藩の動向を見て態度を決するようなことがあってはならない。会津藩は徳川家に絶対の忠義を尽くせ。それが守られぬのなら、それは余の子孫ではない」という正之の忠義を結晶にしたようなものでした。
 しかし、この苛烈なまでの家訓が、幕末に会津若松城落城の悲劇を生むことになり、ここにも歴史の皮肉を感じざるを得ません。

 さて、後半は宝暦治水伝・前編です。
 薩摩が幕府の命により、木曽川の治水工事をやらされるのですが、費用は全て持ち出しの上に、幕府から様々な嫌がらせが…。幕府のやり方が以下に陰湿な「いじめ」であるかがよくわかり、読んでいてムカムカします。だけど、それに耐えて耐えて耐え忍ぶ薩摩藩士たち。涙無しには読めない話は次巻に続きます。