「週刊文春」で連載されていた著者の「お言葉ですが…」シリーズ。別巻の3巻である本書は、著者があちこちで書いた文章の集成です。
中国文学者で、言葉について造詣が深い著者。しかも間違いには歯に衣着せず、舌鋒鋭く批判する著者。そんな著者が漢字検定の問題をやってみたというのだから、もうワクワクしながら読みました!
「アヤシゲな」というのは、金がもうかりすぎて不可解な支出をしたから、というのではない。人の「漢字能力」を検定してやろうというのが、正常な感覚から見るとアヤシゲだからである。無論「検定」していただこうというほうもかなりアヤシゲである。(10頁)いや、もうこれ、検定ビジネス全般に対する批判ですよね(笑)。昨今、趣味についての検定が色々華々しいですが、実用を前提とする能力の検定を趣味的に受けるのならともかく、純粋な趣味のことについて、わざわざその習熟程度を他人に検定してもらおうというのは、言われてみれば妙な話です。
でも、純粋な趣味事について検定を受けるのは、それこそ「趣味の世界なんだから放っといてくれ」って話になるのでしょうか。そうすると、語学検定などと比較したとき、漢字検定の胡散臭さが否応なしに浮かび上がってきます。
そもそも、漢字の問題で正解が一つしか無いというのも妙な話です。2級までは略字(常用漢字表体字)でなければ正答とみなされないのですが、著者の『漢字と日本人』などを読み、略字という奴がいかにいい加減かを知ってしまうと、略字を正解とすること自体が馬鹿馬鹿しく感じてしまいます。
具体例は本文中に掲げてあるものをお読みいただくとして、要するに漢検とは以下のようなものだということです。
二級までは、「解答には、常用漢字の旧字体や表外漢字および常用漢字音訓表以外の読みを使ってはいけない」というワクをはめてあるから、教科書なり学習参考書なりを見て適当なところをひっこぬいて、「次の漢字をひらがなで記せ」とか「次のカタカナ部分を漢字に直せ」とか問題にすればよい。今までは漢検の準一級・一級は趣味の世界だと思っていましたが、これだと間違いや怪しい知識を植え付けられるので、無益どころか有害ということになりそうです。それ以前に欠陥商品というべきかもしれません。
準一級、一級となると、急に右のワクがはずれる。そうすると、問題の作り手の教養のなさ、常識のなさ、つまりは程度の低さが露呈する。漢和辞典や漢字漢文の本から、なるべくむずかしげな、自分にもわからない字やことばを拾って問題にするのだろうが、その問題がまったく無系統で断片的である。字やことばの持つ雰囲気、気分、使いどころなどを知らないから、奇妙キテレツな文章ができる。(25ページ以下)
白川静と藤堂明保の「論争」について書かれた文章も面白かったです。白川静を高く評価する声が聞かれる一方で、トンデモ扱いする声もあり、門外漢としては何とも判断のしようがなかったのですが、この文章を読んで状況がよくわかりました(藤堂先生の方に説得力を感じました)。
「時と暦と広辞苑」という文章は、太陽暦(グレゴリオ暦)と満年齢換算しか知らず、それ以外について考えたこともない、という方に一読をオススメします。自分たちが当然だと思っていることを相対化し、足下から揺さぶってくれます。現代の常識そのものを疑えとまでは言いません。が、過去・歴史について考察するときに現代の物差し・価値観をあてがってしまう愚について、もう少し我々は自覚的になるべきだと思います。
掘り出し物的に面白かったのが「声で読むのと目で読むのと」。
「昔の人は音読していた」的な極論に対するダメ出しも面白いのですが、予想外な「へぇ!」をもらえたのが、黙読と視読の違いです。
速読について知識がある人ならご存じでしょう。黙読とは「声を出さない音読」で、意識の中で音読しています。それに対し視読とは、文字から意味だけを読み取る読み方です。本をパラパラとめくったり、コンピュータで流れゆく文字を見たりして黙読の習慣を外す、というトレーニングがあるのですが、視読の感覚というのが今イチわかりませんでした。
が、本書の例で「なるほど!」と目から鱗が落ちました。視読の例として挙げられていたのが数式です。
y=ax+b や (a+b)^2=a^2+2ab+b^2 などは、計算したり問題を解くとき、一々黙読しませんよね? 数式は解くという目的が明確にあるので慣れると一々黙読したりしません。確かに数式は「視読」してるんですよね。こんなところで速読のヒントが得られるとは!(笑)
さて、ここで問題です。
『南総里見八犬伝』の作者は誰でしょう?
私も含め「滝沢馬琴」と答えた人、それ、間違いです。間違いが広まって慣用化してきている滝沢馬琴ですが、正しくは「曲亭馬琴」です。
馬琴の本名は「瀧澤興邦(たきざわおきくに。後に解(とく)と改めた)」です。ここで、馬琴という名前が鴎外や漱石のように、名のみのペンネームと考えた人がいるらしく、明治以降「滝沢馬琴」の名が流布したようです。しかし、例えば桂米朝(本名:中川清)を「中川米朝」、桂枝雀(本名:前田達)を「前田枝雀」とは言いませんよね? 馬琴の名は「曲亭」とセットで用いるものです。滝沢馬琴という名もそれなりに人口に膾炙し、市民権を得てきているようですが、やっぱりこういう事情を知ってしまうと気持ち悪くて使えません。
…と得意げに書きましたが、本書で勉強させていただきました。
今回も著者に色々教えてもらえました。『本が好き、悪口言うのはもっと好き』の解説で呉智英さんも言ってましたが、ものを教えてくれる人がいるというのは本当にありがたいことです。