2012年10月8日月曜日

[紹介] 高島俊男『漢字と日本人』

高島俊男『漢字と日本人』
漢字と日本人との関わり(歴史的経緯)を概観し、日本語という言語の特殊性(例えば明治以降の翻訳語は漢字無しに理解出来ない)が浮き彫りに。そして戦後の国語改革により言語文化が断絶された事実に悲しみを覚える。(crossreview

 日本人の漢字との出会い、そしてそれをどう取り入れていったか、その際にどういうことが起こったか。漢字を通して日本文化の根底にある意識を指摘した本。

 漢字、とくに訓読みって、よくよく考えるとかなり変なことをやっています。
 「川でおよぐ」と我々は普通に「川」を「かわ」と読んでますが、これ、漢字じゃなかったとしたらどうでしょうか。
 「riverでおよぐ」を「かわでおよぐ」と読むのってなんか変ですよね。でも、漢字に訓読みをつけて読むというのはこういうことなんです。

 ひらがな、かたかなと言いますが、漢字で書くと「仮名」つまり「仮の名(文字)」なんですね。では「真名」は…そうです、漢字です。
 こういう意識は、日本人が「正しいもの、進んだものは自分たちの外側(海の向こう)にあって、そこからもたらされる」という意識にも通じます。この辺の話は内田樹『日本辺境論』とも符合します。
 漢字で書いたら賢そうだけど、かなでかくとアホっぽい、という意識の根底にも、この手のスノビズムがあるからなんでしょうね。

 でも、書き言葉である漢字の、音読みの熟語ばかりで話されると、何言ってるのかわからないことがあります。
 これは、明治初期に、文明開化で西洋文化を積極的に取り入れたとき、西洋のことばや概念を片っ端から漢字に訳していったからです。そのとき、漢字の意味だけで熟語を作り、耳で聞いてわかるかという観点が欠落していました。結果、我々が用いている熟語の多くは同音異義語がいっぱいで、例えば「コウセイ」と言われたとき、それが構成なのか校正なのか更正なのか、文脈に即して頭の中で漢字変換してみないとわからなくなりました。
 なお、明治初期に西洋の言葉をどれだけ苦労しながら翻訳していったかについては、柳父章『翻訳語成立事情』をご参照下さい。

 さて、明治以降の日本語は、そういう漢字抜きには成立し得ない複雑な言語となっています。
 なのに、戦後のどさくさに紛れて国語改革ということがやられてしまいました。いみじくもシオランが「祖国とは国語である」と喝破していますが、その日本文化の中核的な要素の一つである漢字表記やかなづかいについて、ろくな議論も経ずに変えられてしまいました。
 その後の正かな論者の戦いは悲惨を窮めます。何せ、どれだけ正しいことを言ってようが、学校教育で新字・新かながどんどん生み出されていくと、多数決原理で押し切られてしまうからです。個人的には、小学校で漢字の点や跳ねについてゴチャゴチャ細かいことを言うのは噴飯物なんですが(何を以てその字が正しいと思ってんだ、と)、自分たちが先祖から受け継いできたと思っているモノが、実は誰かの手によって改竄されたものであると知ったときは、やるせない気持ちになりました。

 日本文化論として読んでも非常に面白い本です。麻生元首相の漢字の読み間違いを契機に、「読めないと恥をかく漢字」などという他人の無知とコンプレックスにつけ込むが如き、恥知らずなタイトルの本が雨後の竹の子のように出版されました。が、そういう俗流漢字本を読む暇があるなら、是非本書を読んで欲しいところです。