表題作の「蕎麦ときしめん」は、東京から名古屋に転勤になったサラリーマンの書いた名古屋人論を読んで著者が唖然とする、というパスティーシュ。
冒頭から、名古屋人は東京にコンプレックスを抱いており、タクシーの運転手は下手に出て名古屋を卑下してしゃべるが、迂闊に同意してしまうととんでもない山奥に連れて行かれ、「こっから先は歩いてちょ」と置き去りにされるだとか、中日ドラゴンズの選手のエラーには「たわけ、たわけ」の大合唱で巨人の選手がホームランを打てば黙ってスタンドに石やういろうを投げ入れるのが正しい名古屋人のマナーであるだとか、プライバシー尊重は罪だとか、どんなに空が晴れていても、そこに地下街がある限り地下を歩くのだ! …など、好き勝手書きまくっていて、僕の名古屋観は完全に本書によってねじ曲げられました。名古屋に遊びに行ったときもユニモールやサカエチカを歩かないと気が済みませんし、8時を過ぎたら女子大小路以外はゴーストタウンとなる、と今でも思ってます(笑)。
こんなの著者が名古屋人だから許されるんだろうけど…と思ってたら、最後の短編が「きしめんの逆襲」! 郷里からタモリと共に不倶戴天の敵とされ、自宅に「毒入りだで危険だぎゃあ。食べたら死ぬぎゃあ」というメッセージを添えたういろうが送られてきたりしたそうで、また名古屋のイメージが一つ歪みました(笑)。
他にも、司馬遼太郎の文体で社史を書いた「商道をゆく」、同じく司馬遼太郎の文体で猿蟹合戦を描いた「猿蟹の賦」も好きです。
特に後者は一行目からふるっています。
浜の蟹兄弟が仇討ちをしたがっている。知恵者の蟹平は、いが栗が仇討ちの仲間に加わってくれないとき、熊ん蜂を仲間にします。そして…
と、いうことは近在で知らぬ者がない。
三代昔の先祖の素行までが知れわたっているような田舎村である。村の中で秘密など持ちようがなかった。
ただ、
できるかどうか。
が、問題であった。
しばらくして蟹平はもう一度使者を送った。今度は七難の蟹吉である。これだけ知恵者の蟹平が、臼どんに赤心で助太刀を頼みに行く所は感動ものです(笑)。
蟹吉には多少の演義ができる。蟹平に指示されている蟹吉は、余裕ある口調で口上をのべた。
「先に、援軍のことをおねがいしたが、もうその必要はなくなりました」
と、蟹吉は微笑を浮かべていった。すでにことわられているのにわざわざそれをいいにくるのも変なのだが、蟹吉の態度に栗はつい興味を引かれてしまった。
「ほう。何故か」
ここからが蟹平の策略である。
「実は、三国一の槍働きをするくまん蜂の味方を得ることができました。そのため、槍の援軍はまにあってござる」
「蜂だと」
いが栗は気色ばんだ。蜂がいればこのおれのいがが不要だというのか。
蟹平はいが栗の自尊心を刺激している。
男の妬心ほどむつかしいものはない。
おまえより他の者の方がたのもしいといわれた、ただそれだけのことで利害を越えた不思議な感情が男を行動に駆り立てる。
いが栗のこの時の反応がそれであった。
英語語源日本語説の論文が、版を改める毎に支持者を増したり、はたまた弟子と揉めたり、そんないきさつが改訂版の序文の変遷で辿れるという「序文」も面白かったです。お陰で専門書の序文を読むときは今も半笑いになってしまいますが…
全ての人にオススメです。とにかく読んで笑って下さい!
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