ネットや携帯電話が急速に普及しだして10年から20年が経過した。この新しいITツールの普及によって、我々の心と身体、そして意識ににどのような変化が起きているか。『ネットバカ』や『つながらない生活』など、この問題を論じた本が出始めている。
本書もそういう一冊かと思って読んでみたが…正直期待外れだったと言わざるを得ない。言葉は悪いかも知れないが、俗流のIT批判の域を出ておらず、依拠する価値観もネット以前のものへの懐古的側面が強く、ほとんどマイナス面をあげつらうだけに終始している。
「第一章 いま、心と言葉が壊されている ~精神医療の現場から見えてきたこと」では、インターネットと携帯電話の普及率を表すグラフと児童虐待の認知件数のグラフを比較し、両者が一致しているという。
しかし、これをもってインターネット・携帯電話の普及により児童虐待が急増したとするのはあまりに早計であろう。グラフの比較によって確認できるのはせいぜい相関関係までで、因果関係までが立証されるわけではない。それ以前に、児童虐待の認知件数が増えたのは単に数が増えたのではなく、今まで虐待と認知されてこなかったものが認知されるようになったこともあるなど、児童虐待の認知件数の増加それ自体について検証しておくべきことがある。
著者は精神科医で児童相談所などでも勤務していたそうだが、専門家の議論としてあまりにも乱暴である。
携帯電話の普及により、待つことに対する耐性が極端に低くなったという指摘については、一般論としては首肯できる部分もある。しかし、挙げられている例を読んでいると首をかしげたくなる部分が散見される。例えば、
そのほかにも「出会い系」などの恋愛サイトやサービスも多く出現しています。これは、恋愛により生じる複雑な人間関係などを省略化し、極限まで恋愛を効率化した形と言えます。つまり、私たちがある人に対して恋愛感情を抱いたとしましょう。その人に対してコンタクトを取り、何回かのデートや会話を重ねながら恋愛を育んでいき、その延長に肉体的なつながりがあったはずです。しかし「出会い系」サイトでは、こういった恋愛の持つ時間的な縛りや人間関係の進展などを可能な限り省こうとしているのです。この省くために用いられているのがテクノロジーや金銭であったりします。つまり「出会い系」サイトでは、恋愛の持つ肉体的なつながりまでの多大な労力を、技術や金銭を用いて極限まで簡略化させているのです。このようなサイトでは、「待たず」して肉体関係などの目的を成立させることができているのです。というのを読んでも、ネット普及の前にはテレクラがあったし、それ以前に風俗はどうなるんだ? と引っかかりを覚えた。風俗は、わかりやすく恋愛の持つ肉体的なつながりまでの多大な労力を金銭を用いて簡略化させているが、この点、著者はどう答えるのだろう。(こういう既存のものはそれなりに敷居が高かったが、「出会い系」サイトにより一般人にも敷居が低くなった、というのならまだわかるが、それだと論旨が変わってくる)
(47頁)
第二章から第四章までは、インターネットによって我々にどのような変化が起きたかを考察するための前振りとしてか、精神と言葉のメカニズムを振り返り(第二章)、インターネットの歴史を振り返り(第三章)、SNSの仕組みについて説明している(第四章)。
結局これが本書のテーマと絡んでくることはあまりなかったが、上記の知識は要領よくまとまってはいる。関連知識として読むくらいでちょうど良いと思うが、この手の知識がない方にはよい概説になるだろう。
第五章で、やっとインターネットの問題点に言及される。が、それも「友達関係が希薄になり、断片化される」などの特徴を従来の友達関係と比較して否定的評価を下すだけ。むしろ問題は、ネット上(特にSNSなど)では、中学・高校時代の同級生のように数年に一度会えば良いくらいの人間の情報が、現在濃密に付き合いをしている人と同価値に見せられるという「つながりすぎる」側面が問題である、というような考察があれば読み応えもあるが、そういう人間関係とテクノロジー全体を考察するような話にいかず、局所的なレベルに終始してしまっている。
また、SNSなどでは個人情報を収集して統計処理し、個人の好みに合った広告を送ることなどを問題としていた。が、そういうサービスが発生させる側面が強い問題と、個人の内面に起きる問題が混在しており、論旨が不明瞭となっている部分もあった。
第六章はネットにより知的財産が浸食されているという指摘。ここは従来のビジネスモデルと著作権に基づいてネットの現状を批判するだけ。しかも非常に独断的で特に説得力に欠ける章であった。
まず、楽曲がネットにアップされることによって音楽業界に損害が発生していると断定するのがステレオタイプな見方そのものである。最近では、『孤独のグルメ』の作者でドラマの音楽も担当した久住昌之さんが著作権フリーにして公開したら、逆にCDが売れたという話もある。この問題について少し調べれば、ネットに音楽がアップされた→著作権侵害だ、損害発生だ! などという単純な話でないことはすぐわかるはずである。著者はその辺のことをちゃんと調べなかったのだろうか?
もっと気になったのが、著者の偏見とも言うべき価値観である。
ネットを使うことで新たな才能を生み出していく、こういった試みは失敗に終わってしまった、現在まででは失敗してしまったと言ってもよいでしょう。フリー文化によりプロと一般の垣根を低くし、才能あふれるミュージシャンをもっと簡単に発掘する。そんな期待を抱いていましたが、今ではその期待を裏切り、ふざけた動画や興味をひくほどでもない音楽であふれ返っています。ネットの普及によって、素人にもコンテンツ制作・発表が簡単に行えるようになり、コンテンツ(しかもその大多数がつまらないもの)であること自体は「引き返せない楔」であり、仕方の無いことです。著者のように繰り言のような批判をしても仕方なく、結局は溢れかえったコンテンツの中で見るべきものをどう発掘・評価していくかというシステムの問題に回収されるように思う。
その一方で、一流といわれた音楽を生活の糧にするようなミュージシャンは確実に減っています。現在では、音楽で(音楽配信だけで)生計を立てるのはほぼ不可能と言ってもいいでしょう。私たちは過去に行われた素晴らしい演奏や音楽作品をタダで聴くことはできますが、未来の芸術家たちの一流の音楽を聴く機会をこの「フリー」という文化のもとで潰されてしまったのです。
(190頁)
それよりも、著者が言う「ふざけた動画」「興味を引くほどでもない音楽」と「一流の音楽」という線引きは一体何なんだ、というのが疑問である。別に価値相対主義に基づいて全てのコンテンツが等価などと言うつもりは全くないが、著者が言う「ふざけた動画」にもレベルの高いものはあるし、逆に著者が「一流」だと思っている音楽が実は大したものじゃない、ということだって十分考えられる。下手をすると、著者が言ってることは、年寄りが若い人の曲の違いがわからず「全部一緒だ」と言うのと同じレベルの話かも知れない。
この章に関しては、著者は完全に力不足・準備不足と言わざるを得ない。問題全体の考察が全くなされていないからである。しかもこれが『インターネットが壊した「こころ」と「言葉」』とどうつながるのかもよくわからない。
第七章は精神医療の変化について述べているが、著者の専門分野についての知識を紹介しただけになってしまっている。
本書のテーマなら、身体性との関係性など興味深い切り口はいくらでもあると思う。せっかく良いテーマを選んでいるのに、話の広がりがほとんどといっていいくらい無かったのが残念でならない。
そんな本書はオススメできないと言えなくもないが、ありがちなネット批判の意見を抑えておくという意味では使えると思う。批判的に読むことで考えるきっかけになる、という点でオススメします。(実際、私は「え? それ違うんじゃないの?」と引っかかりながら読みましたが、著者に反論しながら読み終わったとき、ちょっと充実感がありました。「頭のスパーリング」として、皮肉ゼロで楽しんで読めたと思ってます)