2013年5月29日水曜日

[紹介] みなもと太郎『風雲児たち』(13巻)

鎖国下の日本で鳴滝塾まで開いたシーボルト伝説はじまる!高野長英と渡辺崋山の半生は二人の性格どおり対照的。破天荒で傲岸不遜な天才・長英と、赤貧の中寝る間を惜しんで学ぶ崋山。面白い以上に色々考えさせられた。(crossreview

 シーボルト、遠山金四郎、間宮林蔵、高野長英、そして渡辺崋山の半生が紹介されているのですが、このどれもがとにかく面白い!

 自称・オランダの山岳地帯出身のシーボルトが、往来のど真ん中で診療していたのを経て鳴滝塾の開設に至るまでがもうドラスティックで、日本史の教科書で「シーボルト事件」とだけ端的に紹介されているのが勿体ないことこの上ない!

 その鳴滝塾に入塾することになる高野長英の半生も、これまた凄い。郷里の秀才などという程度に留まらなかった天才ならばこその、この傲岸不遜な態度。その才を知っている後世の立場からだと「許してやれよ」と言いたくなるが、同時代を生きた人々からしたら傲岸不遜な態度こそよく見える(し、実害も被る(笑))が、才という奴は見る人が見ないとなかなか見いだせないものなだけに、天才を遇するということの難しさについて改めて考えさせられました。
 また、長英自身も、その性格・気性によって天才を十全に発揮することなく世を去ることとなりました(それは後の巻で語られます)。長英の人生を振り返ると、あまりに惜しいと思うことがあるのですが、その惜しむべき才が、傲岸不遜な態度と表裏一体のものであることを考えると、才能と人間性の両立って奴は本当に難しいなぁ…と思わされました。

 長英がすねかじりの好き勝手やっていたのと対照的に、赤貧洗うがごとしの貧乏藩・田原藩の家老の家に生まれた天才・渡辺崋山の半生も強烈です。貧乏を絵に描いた…のは漫画だから当然だとして、その貧乏をよせば良いのに煮染めたような境遇の中で、学問と絵画を学びたい欲求にかられ、寝る間を惜しんで絵を描き、学問に打ち込む。勿論昼間は出仕して藩政をこなしての上で、です。
 いっそ長英くらい向こうっ気が強ければ、家族を捨ててでも脱藩し、その才能を開花させたでしょうが、根が生真面目な崋山にはそれができず、夢を諦める形で挫折を味わいます。が、その先に、庶民を見る優しい視線が生まれ、独特の暖かみのある絵画が生まれたのですから、これまた複雑な気持ちになります。

 歴史や伝記に限らず、これは人間の性格・性質にも広く共通することですが、一見するとマイナス面や欠点に見えたとしても、それを下手に取り除くとかえって全体のバランスが崩れてしまう、ということがあります。
 マイナスを克服するだけが能ではありません。欠点よりも長所を伸ばすことでかけがえのないものが生まれたり、挫折の先に思わぬ僥倖が見えたり。だからこそ人生は面白い、とも言えるのですが、それは振り返ってから言えることで、その当時はまずわからないよなぁ…とあれこれ考えさせられる13巻でした。