2012年5月10日木曜日

[紹介] 内田樹・名越康文『14歳の子を持つ親たちへ』

内田樹・名越康文『14歳の子を持つ親たちへ』

「狂い過ぎている人は発狂しない」であの人やこの人に思い至ったり(ヲイ!)、と気づき満載で付箋貼りまくり!子供に対するときに大切なことや「おばさんの真実」などの指摘には、なるほど!と目から鱗の連続でした。(crossreview

子育て論をテーマにした対談本、ということになっているが、子育てに関係なく示唆に富んだ話が盛りだくさん。
以下、気になったトピックを抜粋します。

既存の制度に問題が起きたとき、それを少しづつ手直ししていくのではなく、決定的にダメな所まで矛盾を放置した後一気にひっくり返す、という指摘(32頁、35頁)にドキッとしました。それが日本人固有のメンタリティなのかは若干疑問ではありますが、本書の中でもたびたび登場する「忠臣蔵メンタリティ」「丁半博奕メンタリティ」って、確かにあるよなぁ、と納得。
でも、確かにそうなんだけど、ダメな所を極限まで放置しておいて外科手術…という「膿を出し切る」モデルって、システム運営に自浄作用がなくなり、小まめな手直しが効かない事態に陥っているからこそ用いられるわけで…結局「大胆な改革が嫌なら普段から小まめにメンテナンスしておきましょう」という当たり前の結論に落ち着きそうです。

「狂い過ぎている人は発狂しない」(47頁)は笑いつつ同意してしまいます。
G.K.チェスタトン『正統とは何か』でも、「狂人とは論理を失った者ではない。論理以外の全てを失ったものだ」という指摘があります。つまり、狂人とされている人たちは、彼らの中では論理的に一貫しているが、その論理が社会的な常識や客観性の土台に根ざしていない「トンデモ論理」になっている、ということ。ブラック企業の上司の論理がまさにそれで、その人の中では完結した仕事観・会社観なのだが、一般的には「それ何て奴隷制?」みたいなことに、狂人の構造というのが見て取れるように思います。

「ムカつく」しか言葉を知らない子供が、感情の濃淡を表現する語彙を持たないために、感情そのものが貧しくならざるを得ないという指摘(50頁)にも納得。
人間が言葉によって世界を認識し、言葉によって思考する以上、語彙が少ないということは複雑な感情を持ち得えないことを意味します(語彙自体が少なくても、少ない語彙と色々な比喩・説明を駆使して自分の感覚を表現しようとする人は複雑な感情を持ちうるが)。
こういうことは以前から思う所ではありましたが、その理由が親による子供のシグナルのオミットによって涵養されるというのは完全に盲点でした。

「敬意っていうのは、自分が敬意を持った相手からしか、返ってこない」という指摘は、近々に体験したことだっただけに、これにも激しく納得(笑)。
もっと突っ込んで言うなら、こちらがいかに敬意を持って接していても、相手方が人に対して敬意を払えない、持てない人間だと、こちらの誠意もいずれやせ細り、枯渇していきます。著作を通して知り合うなど相手と生身で関わることがなければ一方的な敬意を持ち続けることも可能ですが、師弟関係であっても生身で関わっていれば、師が弟子に敬意を払ったり人間として尊重する部分がないと弟子の敬意は枯渇します。師弟という関係性だけでは敬意の持続にも限界があり、関係性だけは続いても内実を伴わない、ということはいくらでもあることでしょう。
そういう意味で敬意は「払い合い、与え合」わないと持続しません。

…と思いつくままに本書を読んであれこれ考えたことを書いてきましたが、この他にも刺激を受ける部分はたくさんあります。(特に内田氏の発言に顕著なのですが)一見通念をひっくり返すようなこと(逆説)をいうが、よくよく検討してみるとそちらの方が実感としてもしっくりくるし、妥当である、という論理構造を取っていることが多いので、それが知的刺激の元なのかな? と思うところです。
対談形式なので読みやすいですが、考え出すと深みにはまるくらい「考えしろ」のある本だと思います。