本書のタイトルもそうだが、「知らないと恥をかく~」や「なぜあなたはまだ~しているのか?」といったタイトルの本には嫌なモノを感じてしまう。これらは読者の無知を嗤い、恫喝するものであり、単純に不快感を感じるからだ。
が、本書は思わず手に取ってしまった。
パラパラとめくると、話が長い原因に、準備不足によるパニックと、準備のしすぎで独りよがりな詰め込みプレゼンになってしまうことが挙げられており、背中に冷や汗をかいた。
…ワ・シ・の・こ・と・や・な・い・か!
恫喝に屈しましたとも、ええ…orz
読んでみると、長話のマイナス点からはじまり、長話のパターン、相づちなど話を聞く技術の紹介に、思考整理のためのロジカルシンキングの基礎、そして接続詞の使い方、と基本的なことの本当に基礎レベルのことが書かれているだけでした。
とはいえ、それがちゃんと出来てるかというと…他の本の紹介で何度も書きましたが、「知ってることとできることは違う」で、できてない部分が多いなぁ…とヘコみました。
あと、本書を読んでいて気づきがあったのが、定性表現と定量表現の違いです。
定性表現とは、「強い」「素晴らしい」「すごい」「偉い」など、個人の主観が基準となる表現のことです。これに対し、定量表現とは、数値化できる客観的な基準に基づいた表現のことです。
この定性表現・定量表現のいずれを用いるかについては、語彙や知性も関わってくるでしょうが、物事の認識において感覚的(身体的)か論理的(頭脳的)かという部分があるように思いました。
感覚的か論理的かというと、前者より後者の方が良いように思いますが、必ずしもそうとばかりは言えません。確かに、定量表現を用いた論理的アプローチでなければ話題の共有・整理は難しいでしょう。しかし、人を説得する段になると、論理一本槍では厳しくなります。香西秀信さんが「人間は論理的な生き物である。だからこそ、論理で説得されるのを最も嫌う。泣き落としなど情で説得された方が、自分のプライドが傷つかないので受け入れやすい」という趣旨のことを仰っていましたが(『論より詭弁』)、「あいつの言ってることは確かに理屈ではわかるけど、納得できない」という言い方が往々にしてあるように、いわゆる「腑に落ちる」という身体的な実感を伴わない言説は、それはそれで問題があるということです。要するに、感覚と論理、両方のバランスが大事ってことですね。
しかし、人間は認識段階で感覚的・論理的いずれかに偏っている人がほとんどでしょう。私自身については、感覚的な方に偏っていると思います。その認識の偏り自体を修正するのは無理あるいはかなり困難だと思われるので、それよりは自分の偏りを認識した上で欠如している部分を補ってバランスを取る、という考え方の方がいいんじゃないかな…などと、気がつけばつらつら考えていました。
話し方の具体的スキルについては、著者の他の本を読んだ方が良いように思います。やっぱりタイトルに釣られた気がないわけじゃないですが、「俺の話ってくどい?」「俺の話し方って、バカっぽいかな?」というコンプレックスをお持ちのご同輩は一読してみてもいいんじゃないでしょうか。
本書読了後、周りの人間に当たってしまう一幕もありました。
みんな、おれのことバカやと思ってたんか!!すると、周囲の人間はにべもなくこう言いました。
うん。…気づかんかったん?愕然とする私。空気が読めないなんてチャチなもんじゃない、もっと恐ろしいものの片鱗を味わった気分です。
今まで俺のこと、そんな風にそんなこと思てたんか!?
…わかった。俺はバカだ! せやから、次会った時は貴様のカバンにマヨネーズをねじ込んでやる!!
はぁ!? 何でそうなるの!?
決まってるやろ、なんてったって、俺はバカなんだから!
!!
威勢良く啖呵を切ってみて分かったんですが、私の周囲の人間はバカではなく「おバカ」だったようです。