不世出の天才二人を師に持った著者の、伝記かつ自伝。師弟論としても読める。植芝盛平に対しては教育者的側面に対して否定的な記述も見られるが、「名選手必ずしも名監督に非ず」ということが言いたかったんだと思う。(crossreview)
中村天風と植芝盛平。著者の二人の師を軸に、著者が心身統一合氣道を確立するまでに至った道のりを自伝的に描いた本。
著者が氣について説いた他の本も読んだことがある。それらとの違いで言えば、本書は著者の歩んできた道程が描かれており、その中に著者の教えを理解するヒントがいっぱい詰まっている。著者の氣の教えを理解する上でも本書は非常に有益といえる。
また、本書は師弟論として読んでも興味深い。
本書に対する感想・コメントで「中村天風に偏りすぎている」というものを見かけた。確かに、本書の中では中村天風についてはほとんど肯定的な話しか書かれていないのに対し、植芝盛平についてはかなり否定的なことも書かれている。正直「何もそこまで言わいでも…」と思うことがなかったと言えばウソになる。
が、この愛憎半ばする書き方こそ、著者の偽らざる師・植芝盛平への思いだったと思わずにはいられない。
著者の書きぶりを見ていると、「名選手は必ずしも名監督に非ず」という言葉が頭をよぎる。
著者は合気道の使い手としての植芝盛平については掛け値無しに評価している。
一方で、植芝盛平の教え方については、自らの実感にてらしても、どうしても得心がいかなっかようである。例えば、力を抜くべきなのに、力をいれさせるような教え方をしているのはあべこべではないか、と。著者が言いたかったのは「先生の今の教えは、先生ご自身の体の使い方を正確に表現したものではありません。本当はこういうことをおっしゃりたいのではないですか」ということだと思う。
が、植芝盛平にはそれが伝わらなかったようである。「弟子は師匠に口出しすべきものではない」という価値観からすれば著者の言は不遜でしかないし、「奥義(あるいはコツ、勘所といったもの)は秘匿すべきものである」という武術家的な価値観からすれば「そんなことを得意げにぺらぺら喋るな、隠しておけ」という風に映るだろう。あるいは、合気道のとらえ方、氣や技を説明する"文法"そのものが、それこそ英語とアラビア語くらい違っていて、著者の言うことが全く理解されなかった、ということもあるかもしれない。アニメ「攻殻機動隊S.A.C」でタチコマが「人間は言語という不完全で不自由なツールを用いてしかお互いの情報を交換できない」みたいなことを言っていたが、もしかすると二人がその高度な身体実感をやりとりするのに、言語という媒体そのものがボトルネックになり、それが二人の間にコミュニケーションの齟齬を生んだのではないだろうか…不遜ながら、読んでいてそんなことを思ったりもした。
この点、中村天風はクンバハカの説明に疑義を呈されたとき、説明を改めたとある。
おそらく、著者にとっては目指すべき道・目標が一番大事で、師は遥かに先を進んでいたとしても究極的には同じ道・目標を目指す同志という感覚があったのではないだろうか。だとすると、著者にとっては自分の考えをきちんと受け止めてくれた中村天風の方が素晴らしい師匠、ということになる(一方で、植芝盛平を神格化する弟子達に苦言を呈しつつ、否定的な話も書いたことにも合点がいく)。
植芝盛平について否定的な記述もあることから、植芝盛平を貶していると取るのは、私は違うように思う。師と共に同時代を生き(裏で悪口も言われたりして嫌な思いもし)た直弟子としては、ロクに知りもしないのに無批判に師を持ち上げるのが許せない、という思いも強いのではないか。これは「俺が一番師匠のことをよく知っている!」という、弟子の「師匠語り」という最大の愛情表現ではないだろうか。
本書の話は「藤平史観」とも言うべきものだから、当然語り手が変われば同じエピソードでも違った意味づけがなされることになろう。その意味で記述の全てを無批判に受け入れることはできないが、植芝盛平や中村天風といった稀代の天才、そしてその天才の列に連なる著者について知る上で、非常に参考になる書であることは間違いない。