2020年4月6日月曜日

マンガにおける万物インフレの法則

半年程前、Kindle unlimitedに『新ナニワ金融道』シリーズがあることを知り、読んでみました。

読後、胸中に何とも言えないむかつきのようなものが残りました。
大急ぎで補足すると、このシリーズが面白くなかったと言うわけではありません。
青木雄二プロダクションが故・青木雄二のテイストを守りつつ物語を新たな局面へ進めていくのは、ある意味で相当勇気の要ることです。
そうでなくとも旧作ファンというのは思い入れが強ければ強い程、後継作品に対する目が厳しくなるものですが、『新ナニワ金融道』シリーズはかなりの満足度が得られる作品だったように思います。

ただ、読み進めていく内に、青木雄二の世界観を引き継ぐ有名作品『カバチタレ!』シリーズとの共通点が垣間見えました。
そのことについて少し書いてみます。

経済学で限界効用逓減の法則というものがあります。
詳細はこちらをお読みいただきたいが、要は人があるモノから得られる満足度は、その量が追加されるごとに減ってゆくという法則です。
一言で言ってしまえば「一口目のビールが最高!」という奴で、二口目以降のビールから得られる満足度は順次目減りしていきます。
仄聞した話では、人間は電気刺激以外のあらゆる刺激に慣れるそうで、拷問が次第に苛烈になるのも、依存症の人の酒量やドラッグの量が次第に増えていくのも、全てこの限界効用逓減の法則で説明できそうです。

そして限界効用逓減の法則は、長編マンガにおいて読者が得る刺激(ワクワク感やドキドキ感、「面白い!」と感じること)にも妥当します。シリーズが変わっても同じような展開が同じスケールで続くと、作品に対して「慣れ」が生じている読者には「ワンパターン」と映り、途端に飽きられてしまいます。
マンガも限界効用逓減の法則から逃れられませんし、お話の構造も放棄できない。そうである以上、ワンパターンを回避するための方策がいくつか取られます。
例えば恋愛要素など別の要素を盛り込んで目先を変える。「新章突入!」として新たなキャラクターや新たな敵を登場させるインフレがおこります。

わかりやすいのは鳥山明『ドラゴンボール』に代表される、バトルマンガのパワーインフレでしょう。
最強の敵だったピッコロ大魔王(とマジュニア→ピッコロ)に勝つと、次はサイヤ人と戦うためピッコロが仲間になり、サイヤ人最強のベジータに勝つと今度はフリーザが出てきて、ベジータもやがて仲間に…というおなじみの奴です。
かつての仲間だった地球人はクリリン以外脱落、ピッコロもクリリンと共に戦力としては補欠扱い、天津飯と餃子に至っては途中でギブアップ宣言をして去ってしまう有様。後半はサイヤ人以外は戦力的にはお呼びでないのがハッキリしました。
(逆に言えば、最後の最後で凡人中の凡人だったミスターサタンがいなければブウを倒せなかったというのは、単なるパワーインフレだけで終わらなかったという点でも鳥山明の非凡さを表しているように思われます)

バトルとパワーのインフレが極端なまでにわかりやすかったのは宮下あきら『魁!!男塾』です。命を賭して戦い、死んだはずの敵味方が、戦いが終わってしばらくすると、見開きで「お、お前らーっ!」と絶叫されれば全員復活完了。仲間に加わり、倍々ゲームでどんどん強大な敵と戦い続けます。(最後、最初の学園モノのノリに収束したのが超ヘンテコですが…)

『ドラゴンボール』や『魁!!男塾』のように、パワーインフレが物語の進行に伴い正比例で上がっていくタイプの作品は、物語の勢いに乗っている間は気持ちよく読めますし、構造が単純なだけにそこまで違和感を覚えることはありません。
この点、パワーインフレが正比例しないタイプの作品は、特に後からまとめて読み返すと矛盾点が一気に吹き出します
その代表が車田正美『聖闘士星矢』で、十二宮編からパワーバランスがよくわからなくなりました。
黄金聖闘士は究極の小宇宙(コスモ)・セブンセンシズに目覚めており、主人公たち青銅聖闘士もセブンセンシズの域まで小宇宙を高めなければならない、と言われます。
が、星座をモチーフにした『聖闘士星矢』の十二宮は黄道十二星座が下敷きとなっており、黄金聖闘士は12人出てくる勘定です。主人公たち青銅聖闘士が5人しかいないため、単純計算で最低でも一人2回は戦う必要があります。そうすると、一度目覚めたセブンセンシズを次の戦いでも使えば良いじゃないか、という話になりますし、後の宮で戦う黄金聖闘士に苦戦していると、前の敵は何だったの? という話にもなってきます(ちなみに、このときから牡牛座のアルデバランには噛ませ犬臭がしていました)。12人の中でも実力差があるということ? と引っかかりばかりが生まれます。
しかも、女神の聖闘士たちの内紛である十二宮編が終わると、やっと外の敵である海皇ポセイドン編、そして冥王ハーデス編と戦いが進みます。が、海皇ポセイドンの七将軍は黄金聖闘士と匹敵する実力だと言われ、また主人公達は苦戦します。こないだ同等の敵と戦ったやないか? という疑問が頭をちらつくわけです。冥王ハーデス編になると、人気のドル箱フォーマットである十二宮にかつての黄金聖闘士の人気キャラが敵に寝返って攻めてくる始末。その後の冥界編が盛り上がらなかったのも、強さの物差しが完全にガッチャガチャになってしまっていたことも一因にあると思われます。

…パワーインフレの話でえらい脱線してしまいました。閑話休題。

パワーインフレを意識的に避けた作品があります。
それが荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』で、はじめから3部(曾孫)まで世代交代することを計画していたそうです。
確かに、『ジョジョ』はパワーのインフレは起きていません。現在8部まで続いている『ジョジョ』サーガにおける最強の敵は2部で登場し、既に倒してしまっているくらいですから。
ただ、パワーインフレにはならずに済んだものの、限界効用逓減の法則という経済の掟から逃れることはできませんでした。
『魁!!男塾』や『聖闘士星矢』が最後まで根性出し切った奴が勝つ(小宇宙はつまるところ根性エネルギーの言い換えに過ぎません)、勝つことに理由のない作品群だとしたら、『ジョジョ』は『ドラゴンボール』と同じく勝つためのロジックがちゃんと用意されているタイプの作品です。むしろ『ジョジョ』はトリックとロジックが前面に押し出された作品と言えます。
そして『ジョジョ』は、特殊能力・スタンドの性能面、そしてバトルのトリックや理由付けがどんどん複雑になるというスタンド能力とロジックの面でインフレが起きました

3部では炎を操る、砂を操る、ピストルの弾丸を操る、ゲームに勝ったら強制的に魂をもらう、などユニークではあるもののわかりやすい特殊能力でした。
しかし、これがだんだん複雑化すると、モノにパワーをチャージして自分の好きなときに引き出すなど、パッと見ではよくわからない能力が出てくるようになります。一見すると単純そうな能力にしてもはじめから色々条件や補足説明がされるようになり、読者が予めわかっておくべきレギュレーションが増え、複雑化は目に見えて明らかとなります。

この特殊能力の複雑化は「ロックマンシリーズにも似たような事が見て取れます。敵のボスを倒してその能力を得るロックマン。最初は敵のボスも「アイスマン」「ファイヤーマン」とわかりやすく、敵からゲットする武器もわかりやすいものでした。
しかし、これも4くらいになってくると「ダストマン」→ゴミを打ち出してそれが敵やモノに当たると破片が斜めに四散する、など凝ったものや、スカルバリア→2のリーフシールドの焼き直しのような既存のアイデアをアレンジしたようなものばかりになりました(「ロックマン」の場合はゲームという制約もあったとは思いますが)。

そしてスタンド能力のインフレとも関連しますが、ロジック・理由付けのインフレも起きてしまいます。
第5部のラスボス・ディアボロのキング・クリムゾンとエピタフ、そして主人公ジョルノのゴールド・エクスペリエンス・レクイエムも、それがどういう能力かWikipediaを読んではじめてちゃんと理解できましたし、最後のオチもわかったようなわからんような話でした。
第6部の最後になると、時を加速させて一巡後の世界に至るなど、それほど高い熱量で読んでいたわけではなかったため、ロジックを追い切れなくなって途中で文庫本を放り出してしまいました。

このロジックの複雑化という点では、甲斐谷忍LIAR GAME』にも顕著に表れていました。
最初は素直さだけが取り柄の、トロいだけの女子大生だった主人公が、トリックの複雑化というインフレが進行したために、読者が文字で読んでも追い切れないゲームの必勝パターンを会話だけで理解し、忠実に実行するまでになっています。作品中のゲーム自体の複雑化と、それに伴う必勝パターンの複雑化、敵の罠と更にどんでん返し…とロジックの複雑化が進めば進む程、読者が置いてけぼりとなり、トロかったはずの主人公がそれを理解してゲームをしていると、読者としては作品自体が全体的にどうでも良くなってきます(私はそうして挫折しました)。

…さて、マンガにおけるインフレの二大パターンを見てきました。
では、冒頭の『新ナニワ金融道』シリーズは何がインフレを起こしたのでしょうか。
本作は街金が舞台となっていますから、金融業界における儲け話や裏話、債権回収のロジックがインフレを起こしている、と考えられがちです。確かにそういう側面もあり、一読するとそういう印象も受けないではありません。
が、本作で本当にインフレを起こしているのは、物語と登場人物です。
故・青木雄二の頃と比べると明らかに物語のどんでん返しを盛り込み過ぎているきらいがあります。読者に飽きられないように、新シリーズが低い評価を得ないように…と色々こだわり、おそらく会議で複数人がプロットを練ったのだと思います。そういうタイプの盛り混みすぎのように感じられてなりません。
当初の計画に予測不能な破綻要素を盛り込むため登場人物がどいつもこいつも非合理的なことをやり出し、また人間のクズみたいなのが出てきては灰原の目論見を邪魔する、はたまた古巣の帝国金融が裏で絡んできて横から利益を掠おうとする…この繰り返しを延々読まされると、読み手の心中には澱のようなものが残っていきます。
いっそ真鍋昌平闇金ウシジマくん』くらい振り切ってくれれば別の意味でスッキリもするのですが、そういう感じでもない。何というか、揉めるように揉めるように出てくる後から取って付けたトラブルにうんざりしたのかもしれません。


長い作品はどうしたってマンネリといわれます。
結局、限界効用逓減の法則から逃れることができない以上、折り合いをつけてインフレをコントロールしていくしかありません。
しかし、インフレに陥るのはその作品の魅力の部分だったりします。
そう考えると,だらだら続けずにある程度のところでスパッと終わるというのは、作品にとっても大事なことだよなぁ、と改めて思った今日この頃です。