色んな意味で異端の憲法学者、立教大学の阪本昌成教授が授業中に仰った「法則」だそうです。
[1]
すぐわかる学説は、たいてい間違っている。
正しい見解は理解されることがない。
[2]
学生数の多い大講義室では私語が目立ち、少人数の教室では沈黙が支配する。
[3]
今時の学生は、CDは買っても学術本は買わない。
最近のCDは短期で価値を失う。多くの学術書も同様である。
[4]
多くの学生は、自動車や異性の話はしても学問の話はめったにしない。
少数の学生は、スタイルを決めるために勉強する。
[5]
ほとんどの学生は、講義中、残り時間ばかり気にし、少数のまじめな学生は、自分がまじめに講義を聴いているか(self- reference)ばかり気にしている。
時間を気にし、講義をまじめに聞いているかを気にしている点では教師も同じである。
[6]
教師はクレディト(単位)を乱発し、学生は簡単に単位をくれる教師にクレディット(積極的評価)を与える。
ところが、社会は、こうした大学にも学生にもクレディット(信用) を与えない。
[7]
自分の不勉強の言い訳は、「授業がおもしろくない」という、おもしろくもない理由に求められることがもっぱらである。
[8]
授業がおもしろい、ということはめったにない。「講義がおもしろい」という学生のほうが、よほどおもしろい。
[9]
教師が強調する自説の正しさは、不当表示法の適用があれば必ず引っかかる。もっとも、学説が人々の関心を喚起することはないために、法適用の必要性は論議されない。
[10]
教師の「専門的知見」は、専門的にいえば理解されることはなく、一般的にいえば、専門としての価値を失う。
[11]
大学教育における法則=単位取得率に比例して受講者数は増加し、増加数に比例して知的水準は低下する。悪貨は良貨を駆逐する。
[12]
教師の言うことに、さかんにうなずく学生が優秀とは限らない。
優秀でない学生がうなずくことはめったにない。
[13]
法学の教師は、よい人間のあり方を語る。しかしながら、よい人間になることはない。
[14]
学生の主張は、たいてい間違っている。しかし、彼らが主張するということは正しい。
[15]
人は、自分が恵まれていないのは、能力のせいではなく運のせいだと思いたがる。
しかし、幸運はめったにめぐってこない。
[16]
歴史が証明したことは、「人類は歴史から学んだことがない」ということである。
[17]
悪人が害悪を及ぼすといっても、善人の害悪に勝る害悪はない。
[18]
自由の意味は、それが失われてはじめてわかる。わかったときはもう自由ではない。
[19]
理性など信じてはいけない、と私の理性が言っています。
[20]
現実と非現実とを理解するには、両方を経験しなければなりません。
[21]
大学では、発言すればするほど委員にされ、役所では、発言すればするほど委員からはずされる。
[22]
結婚は、してもしなくても、後悔する。