2018年6月12日火曜日

[紹介] 柿沼陽平『劉備と諸葛亮』

4年ぶりの更新です(^^;)。
この間、人生の転機というやつが次から次へとやってきました。
といって、いまもそれほど落ち着いているわけではないのですが、ぼちぼちこのブログを再開しようと思うに至りました。

本の紹介は何本か書いているのですが、なかなかまとまらず書き散らしたままになっています。
そんな中、まとまらないレビューを差し置いて、最近読んだ本をエイヤッ!と投稿します。

 
副題「カネ勘定の『三国志』」というのに惹かれて手に取ったが…正直、やや残念な読後感と言わざるを得ない。
本書の感想は既にAmazonのレビュー、それも評価が辛めのもので言い尽くされてはいるが、思うところを述べたい。 

1.目新しいものはほとんどなかった

三国志と言えば演義ベースでしか知らず、吉川英治の小説や横山光輝のマンガでしか知らない、という人であればイメージが蜀の劉備・諸葛亮の善玉イメージが崩れると思う。
ただ、正史ベースの歴史としての三国志に興味があって既に類書を読んでいる人は、著者の劉備・諸葛亮への評価についてそれほど違和感を持たなかったのではないだろうか。特に、李學仁・王欣太『蒼天航路』という正史をベースに曹操を思いっきり英雄として盛った作品が三国志ファンに膾炙して以来、劉備・諸葛亮=善玉、曹操=悪玉というわかりやすい演義「史観」はある程度相対化されているように思う。劉備を梟雄とまで言うかどうかはともかく、乱世を渡り歩き最後には皇帝にまで上り詰めた傭兵隊長、人徳よりも任侠・器の大きな大将というイメージも形成されているように思う。
また、演義と正史を比較しながら三国時代を概観する本として満田剛『三国志』や渡邊義浩『三国志』・『「三国志」の政治と思想』など、類書が既に刊行されており、本書を読んでいてもそれらで見たような話が多かった。とりわけ、渡邉氏の著作では氏が提唱する「名士」概念で三国時代を見直しており、それは長年疑問だった諸々を目から鱗が落ちるように明快に理解させてくれた。そういった読書体験と比較すると、残念ながら新しい発見は少なかったと言わざるを得ない。 

2.中途半端

副題の「カネ勘定の『三国志』」という切り口を期待したが、この点も少し踏み込みが浅かったように思う。
ジャンルは違うが、経済評論家・上念司氏が日本史をリフレ派経済的な視点から読み解くシリーズを刊行している。『経済で読み解く明治維新』で、徳川綱吉時代の勘定奉行・荻原重秀の悪貨改鋳を通貨発行量を増やすための施策と再評価しているのを読み、今まで暗君・綱吉の経済に暗いブレーンとしか思っていなかった荻原重秀像が覆され、「なるっほどなぁ~!」と大いに唸らされた。
「カネ勘定の…」という副題に、そういった知的興奮を求めて本書を手に取ったが、あとがきで著者自身が触れているように、一般書としての性格を求める編集部とコアなファンを唸らせるようなマニアックなことを書きたい著者とのせめぎ合いの結果、どっちつかずなものになってしまったように感じられた。
三国志の英雄たちの経済基盤の話もサラッと触れられているだけで、しかもあまり意外性の無い話ばかり。既存の知見が大きく揺さぶられるようなものはなかった。
 
ただ、劉備の蜀政権樹立時に極度の金欠だったことと、劉巴がそのときに提案した名目貨幣政策というのは知らなかったので興味深く読んだ。否定的なことを縷々書いてはいるが、この話を読めただけで本書を読んだ元は取れたと思っている。
市場に広く流通している銅銭とほぼ同じ銅含有量で額面上100倍のものに改鋳して銅銭流通量を確保する名目貨幣政策は、すっからかん状態だった職制権が改鋳の差益によって利益を得たのは事実であるし、著者の指摘するように政権の金欠を穴埋めするための"錬金術"として行われたという点で否定的評価を受けるべきものだと思う。が、本朝では平清盛や先に触れた荻原重秀などが通貨発行量の不足に悩まされてきた(山田真哉『経営者・平清盛の失敗』、上念・前掲書参照)。
そんな通貨量のコントロールが劉備政権において円滑に実施されたというのであれば、(著者の関心とはややズレた興味の持ち方ではあるだろうが)個人的には非常に興味深い話である。名目貨幣政策の実施後、著者(や非リフレ派)が心配するような物価高騰(ハイパーインフレ)は起きたのか? その後の蜀における庶民経済に混乱は起きたのか? 興味は尽きないのだが、本書でその後についてのフォローがなかったのが残念だった。名目貨幣政策により庶民が割を食ったという指摘がなされていたが、それを示す事実・データが掲げられていなかったため、本書の論調と相まってここも著者の劉備・諸葛亮批判の言いっ放しに近い印象を受けた。 

3.現代的な価値観による批判への違和感

本書では随所に従来の劉備・諸葛亮=善玉・人徳イメージを否定する記述が散見される。
三国志演義・吉川英治・横山光輝が築き上げてきた劉備・諸葛亮=善玉・人徳イメージに対する史実としての批判であれば首肯しうるが、はじめに述べたとおり三国志ファンの中でもこのイメージがある程度相対化されているだろう現在において、本書の記述は「今更それを改めて言わなくても…」と逆に嫌みに感じられた。が、これは私が本書の想定する読者対象(批判対象?)ではないからであり、あくまで私がそう感じたという域を出るものではない。
しかし、次の記述は疑問である。
 大金持ちで奴隷を擁する糜竺が、ここでは「清廉」と評されている。現代社会でも、推薦文のたぐいはおおむね美辞麗句をふくむものであるが、それは古代でも同様であったのである。これらの文書をそのまま資料として活用することの危険性は贅言するまでもあるまい。どれほど奴隷から慕われていようとも、奴隷主は奴隷主、奴隷は奴隷であり、この身分差を忘れてはならない。(77頁)
これは現代の価値観で過去を断罪するものである。人は皆生まれながらに平等であるとする近代人権思想をベースに、奴隷制は禁止されて当然とする現代の価値観を前提とすれば、こういう言い方もできよう。ただ、こんな乱暴なことを言い出すのであれば、三国志に出てくる登場人物のほとんどが「どれほど英雄視されようとも、大量殺戮者か専制的支配者(の一味)であり、この罪を忘れてはならない」と言えてしまう。
歴史と向き合うとき、我々現代人はその「答え」を知った状態にある。だから、ややもすると後付けの「答え」を知っている現代人が、「答え」を知らずに模索しその時代を生き抜いた人々を馬鹿にするようなことが起きてしまう。どの時代にも、その時代状況が有する限界というものが存在する。それを思えば、約1800年前の価値観を今の価値観で一言のもとに切って捨てるのが、どれだけ乱暴なことかこれ以上贅言するまでもあるまい。
劉備・諸葛亮の善玉イメージ批判にこういうレベルのものまでが含まれているため、本書の端々で「ことあるごとに劉備・諸葛亮を貶している」かのようなイメージが拭えなかった。
 
あと、董卓の暴政に対する弁護(?)は、劉備・諸葛亮disとちょうど逆方向で、何だか贔屓の引き倒しみたいに感じられた。
著者が挙げている董卓の8つの主張のうち、①羌人支持、漢人の羌人差別やそれに対する羌人の反発というのは納得できた。自分たちを野蛮人と蔑み虐げてきた漢人の都を占拠したとき、積年の鬱憤を晴らすようなことがあってもわからなくはない。文化の違いもあるだろうし、董卓自身も中央の都にはそれほど思い入れが無かったのかもしれない。
ただ、「そもそも函谷関以東の勢力が董卓を攻めねばよかった話である」というのはさすがに「語るに落ちる」という奴だろう(笑)。そんなことを言い出したら「卵が先か、鶏が先か」の水掛け論になるだけで、「攻められてもやっちゃいかんことってあるよね?」ってところに議論が落ち着いてしまう。
 
 
本書は劉備と諸葛亮を軸に、三国志を概観しており、コンパクトにまとまってはいる。本書で描き出された劉備・諸葛亮像にはほとんど違和感が無く、そうだろうなぁと納得することが多かった。
しかし、劉備・諸葛亮disとは別次元で内容に引っかかるものを感じ、モヤッとした読後感だったのも確かである。
本書が掲げた英雄の懐事情については今のところ著者の研究書を読むしかなさそうであるが、新潮選書辺りで一般向けに書かれたものを読んでみたいとも思う。経済システムから三国時代を見直すような突っ込んだ次回作を期待したい。