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2012年6月7日木曜日
[紹介] 藤原聖子『教科書の中の宗教』
高校の教科書を「信頼の置けるまとめ本」として読んでる大人にこそ勧めたい一冊。倫理の教科書中にある宗教差別、という笑えない状況はいかにも宗教に無頓着な日本らしいか。宗教というものについて考えさせられます。(crossreview)
高校社会科の教科書(特に歴史)は基礎的な知識が要領よくまとまってて参考になる、という感覚が何となくありました。
しかし、一方で、「倫理の教科書に書いてあることはウソが3割で誤解が7割」という揶揄も耳にしたことがあります。そのときは「そんなもんか」と聞き流していましたが、なるほど、本書を読んでその言わんとすることがある程度わかったように思います。
本書は高校の倫理の教科書の中で宗教がどのように扱われているかを指摘し、その問題点について論じたもの。
メジャーどころであるキリスト教と仏教はそれぞれ「愛の宗教」「慈悲の宗教」と概説されるも、それは世界的なスタンダードから大きく乖離している、というだけならトリビアルな知識でおさまります。
が、平和に対する意識や環境問題など、現代日本の特定の倫理観を補強する材料としてこれらを利用する姿勢が出てくると、教義の内容は歪められることにもなってきます。
一方、メジャーどころの宗教以外に対しては扱いが悪い、というより宗教差別を内包する記述になっているとのこと。
イスラム教はその教義についての説明が極めて薄く、主に情報提供が宗教行為の紹介に重点が置かれていることも、指摘されればなるほどアンバランスです。
ヒンドゥー教が「教科書にやたらガンジス川の沐浴の写真ばかりを使うな。インドが未開の国であるような偏見を植え付ける」(しかも沐浴はヒンドゥーの教えと直接的な関係は極めて薄い)という批判をしているのも、言われてみれば納得。ステレオタイプなオリエンタリズムがゴリゴリの全開です。
更にビックリしたのは神道の扱いで、日本文化を学ぶ上でもスルーできないはずの神道は意図的にオミットされています。戦前の国家神道に対する反省から来ているのでしょうが、我々の価値観の奥底でOSのように機能している構成要素の一つとして理解しておくべきものを忌避してしまうのは羮に懲りて膾を吹くの類ではないでしょうか。しかも、無視はいじめのえげつない一形態だと思うのですが、まさか「倫理」の教科書の中においてこのような無視が行われてるとは…
そして、メジャー宗教内でも「勝利主義」すなわちある種の進歩主義史観とも言うべき価値観でもって序列化が図られています。
ユダヤ教はキリスト教成立のヒール的な扱いですし、キリスト教もカトリックからプロテスタントへと至ることでプロテスタントの方が何となく最新バージョンの教えっぽく誤解されるような扱いになっています。
仏教の方も似たような事情が見受けられ、上座部仏教から大乗仏教への移行が進歩・発展のように扱われがちなようです。
しかも倫理はセンター試験の科目になっているので、そうでなくても正解ばかりを追い求めがちな日本では、諸外国でも見られないような断定した記述がなされています。また、「まとめ」のために宗教間の対比が無理矢理な形で強調される傾向も見受けられます。
本書では、外国の教科書を取り上げ、外国での宗教教育との対比が随所に見られます。各国とも宗教教育については四苦八苦しているようで、試行錯誤とバラエティーに富んだ教育スタイルが興味深いです。
それとの対比で言うと、日本の教科書における宗教の扱いは、いかにも宗教に無頓着な日本ならではとも言えそうです。しかし、他宗教に寛容というのと、そもそも宗教にあまり関心を示さないというのは、平時の現象面では似通って見えますが、実態は全く違います。(本当に他宗教に対して寛容になるには、ある程度宗教についての知識を知っておかなければならないと個人的には思うところです)
じゃあどういう教科書ならいいんだよ! という声が飛んできそうですし、僕自身読んでて思わなくはなかったのですが、よく考えるとこれこそが正解を求める思考に毒されていることの表れかもしれません(笑)
宗教全般について「考えよう」と思う方は、下手なまとめ本よりも本書を一読されることをオススメします。