2018年11月17日土曜日

権利保障の解除規定?

橋下徹・木村草太『憲法問答』(後掲参考文献①。以下番号のみで表します)を読んでいると、木村先生が語る国民の義務についての解説で「?」となりました。

橋下 僕の持論としては、憲法は国に義務を課するものであって、国民に義務を課すべきじゃないと考えています。日本国憲法には、国民の義務として「納税の義務」「教育を受けさせる義務」「勤労の義務」の3つが定められていますよね。でもそれらの義務も憲法に書く話じゃないと思うんです。
木村 憲法学における前提を押さえておくと、憲法典に書かれた国民の義務は、権利保障を解除するためにあります。
 まず「納税の義務」。憲法は財産権を保障していますから、納税の義務を定めておかないと、「税金をとるのは、財産権侵害だ。正当補償がなければ税金なんて払わない」との主張ができることになりかねません。極端な例ですが、「国民から100万円の所得税をとるには、100万円を正当補償として支払わなければならない」なんてことをしていたら税金の意味がありません。だから、納税の場面では財産権を解除しますよ、と納税の義務を規定しているんですね。
「教育を受けさせる義務」も、親の思想、信教の自由を解除するものです。日本だとあまり問題になりませんが、アメリカでは、キリスト教原理主義の親が「進化論を教える学校に行かせない」という選択をすることがあるんです。ですから、子どもの公教育の場面では、思想・良心の自由、信教の自由はシャットアウトさせてほしいと考えている。
「勤労の義務」は、制定当初いろいろな理解があったそうですが、今は生活保護の場面で重要になります。生活保護法で「常に、能力に応じて勤労に励み」と書かれているのは労働の機会と能力が十分にあるのならば、生活保護に頼らないでほしいという考えからです。このことを正当化するために勤労の義務がある、とオーソドックスな教科書には書かれています。
橋下 でも権利保障の解除、すなわち国民の権利が制限される場面は、世の中にいくらでもありますよね。そこで憲法は「公共の福祉」という概念で、国民の権利を制限する理屈を考えているのではないですか。国民に向けた義務規定が憲法になくても、権利保障の解除はできるはずです。
木村 「公共の福祉」の代表的な場面である国民の間の権利調整の場合、たとえば、芸能人の不祥事報道でたびたび問題となるような、マスメディアの報道の自由と個人のプライバシー権をどう調整するかといった問題については、国家は、自分の権利を行使しようとしているのではなくて、国民の権利を守るという義務を果たすための、調整役に徹していると見ることもできる。でも、納税・教育・勤労については、国家と国民の間に、直接の利害対立があるので、憲法にあえて書いておいた、ということだとは思います。
 憲法は国家を縛るものだから義務規定は必要ない、という考え方もありうるのだろうとは思います。たとえば、納税は、「公共サービスを受ける権利」と「財産権」とを調整するものとして説明することもできるでしょう。ただ、そういうことを言っていくと、かなり抽象的な権利を根拠に、憲法が保障する権利が制約されかねない。そこで、日本国憲法の制定者は、特にこの3つだけは義務として明示し、権利保障を解除しておく選択をとったのだと思います。
(① 位置No.368以下)
「憲法学の前提」って、こんな話、聞いたことないぞ…

いや、確かに大学生の頃、憲法の講義なんて真面目に出ていなかったし、憲法の教科書や概説書も、試験にまず出ない国民の義務なんて読み飛ばしていました。

ただ…本書の中で橋下氏も言及されていましたが、私は「憲法とは国家が守るべきルールを定めた法であり、国家権力を縛るためのものだから、国民の義務なんて書き込まなくていい」という感覚をもっていました。
ですから、木村先生のような解説を見聞きしていれば、絶対引っかかっているはずなんです。スルーしてたなんてまず考えられません。

このことが気になって読書が先へ進まないので、自宅や図書館にある憲法の本を調べてみました(後掲参考文献②~⑦)。

国民の義務の意義


まずは、かつて国家資格試験の"国定教科書"と言われていた芦部憲法(②)から。
(入手の便宜を考え、画層での紹介は最新版にしておきます。以下同じ)

故・芦部先生と言えば、今をときめく片山さつき大臣がかつて「芦部先生の直弟子だ」と発言し、法クラ(法学クラスタ、簡単に言えば法学集団、法学ファンくらいの意味)からフルボッコに批判された、なんてこともありましたが、それはさておき。

芦部憲法にはそもそも「国民の義務」自体が関連項目の中でサラッと触れられていただけで(258頁、261頁)、そもそも立項すらされていませんでした(!)。

木村先生の理解にそぐわない扱いなんですが、芦部憲法と言えば薄いので有名で、「芦部の行間を読め!」なんて言われたりもしたものです。
もしかしたら炙り出しにでもなっているのかもしれませんが、度胸がないのでライターで炙って確認するまではできませんでした。

次に、二分冊の大部で、何でも載ってると言われる辞書的なテキスト、通称「四人組」の憲法を見てみます(③)。


この本は芦部先生ほか高名な憲法学者の"本物の"直弟子で、先生方も高名な憲法学者である四人の先生方が書かれたもので、芦部の行間を埋めてあまりあるほど網羅的に記述がなされており、オーソドックスな見解はほぼ載っているはず。
 一 義務規定の意義
 …明治憲法の…人権保障は、生来の人権という考え方からは遠く、むしろ実際の運用においては、国民の国家に対する義務の方が強調される傾向にあった。これに対して日本国憲法の人権保障規定は、生来の人権を強く保障しようとするものであり、国民の義務の強調には本来なじまない性質のものである。
 もともと近代憲法の人権保障体型は、人の生来の自由や権利の名において、国家が国民を支配する限界を示そうとするものであった。国家はその一般的統治権に基づいて、人権の相互調整や福祉の増進のために、国民に対してさまざまな義務を課すことができるが、それは法の支配の原理に基づき、国会の立法によることが必要であり、しかも国民の憲法上の権利を侵害しない範囲にとどまらなければならない、ということこそが立憲主義の要請である。国家のなかでの国民の義務は、そのような限度で一般的には法令遵守義務として存在し、法令の個別の定めによって具体化されるものであり、ことさら憲法の人権保障規定の中で規定することの意義は乏しいと言わなければならない。国民の憲法上の義務を定めているのは、…具体的な法的義務を定めたものではなく、一般に国民に対する倫理的指針としての意味、あるいは立法による義務の設定の予告という程度の意味をもつにとどまっている。
(③ 533頁以下)
最後の一文の「義務の設定の予告」というのが権利保障の解除を言っているように解せなくもないですが、一読してこれが立憲主義的意味の憲法にてらして国民の義務規定というのは本質的にそぐわないものであること、従って国民の義務規定に実質的意義をあまり認めない方向で解釈がなされているのが読み取れます。
少なくとも国民の義務規定が権利保障の解除のために必要だというロジックは示されていません。

佐藤幸治先生の概説書(④)でも「国民の義務の種類・内容については、憲法に特に定めなければならないということはないが…」(169頁)と同じ論調の記述がなされています。


伊藤正己先生の概説書(⑤)や入門書(⑥)も法的意味を縮小して解しています。

『憲法入門』(⑥)の方から引きます。
…ただ注意しなければならないことは、近代憲法の核心は、憲法によって国家権力を制約するところにあるから、人権の保障によってそのような制約的機能を定めることは、憲法の本質的部分であるが、義務の規定はそのような意味をもたない。それは、あるいは国民に倫理的指示を与え、あるいは法律によって具体化されることを予定するものであり、それ自身として法的意味が大きくないというべきである。
(⑥ 127頁以下)
今、確認できる範囲では国民の義務規定が権利保障を解除するための規定だとする記述は見つけられません。
③を除いては世代的に一昔前になるので、最近の憲法の教科書ではこういう説明がなされている可能性は否定できませんが、少なくとも「権利保障解除規定説」は昭和の憲法学会におけるスタンダードな理解ではない、と断言することはできそうです。

そもそも、こんな解釈が一般的なら、絶対③や④に載ってないわけないんだよなぁ…

個人的には、この権利保障解除規定説は木村先生の独自説の域を出ないのではないかと思っています。
(寡聞にして他に権利保障解除規定説を採る先生がいらっしゃるのを知りませんが、私の知らない多くの憲法学者がこの説を採って国民の義務規定がないと権利保障の衝突を回避しづらいと考えていらっしゃるのかもしれません。非常に考えづらいのですが…)

なお、最近の教科書として安西・巻・宍戸『憲法学読本』(⑦)を確認したところ、国民の義務自体が触れられてもいませんでした!(索引にも載っていませんでした!)。


子女に教育を受けさせる義務の意義


具体的義務規定についても見ておきましょう。

子女に教育を受けさせる義務(憲法25条2項前段)については、以下のような説明がなされています。
これは、第一項の「教育を受ける権利」を実質化するための義務の定めであり、したがって国民のこの義務は、形式的には国家に対するものであるが、実質的にはその保護する子女に対するもの(注1)だということができる。
(注1) 最高裁もこの点につき、「単に普通教育が民主国家の存立、繁栄のため必要であるという国家的要請だけによるものではなくして、それがまた子女の人格の完成に必要欠くべからざるものであるということから、親の本来有している子女を教育すべき義務を完うせしめんとする趣旨に出たもの」と判示している(最大判昭和三九年二月二六日民集一八巻二号三四三頁)。
(③ 535頁、同旨④ 170頁以下)
日本国憲法においては、民主主義が基盤となっており、民主国家の存立や繁栄のために教育が重要であること、さらに、国家の構成員である国民自身の人格形成のためにも教育が必要であるということからとくに教育の義務を定めている。
(⑤ 410頁)
歴史的に見れば、子供は農家の働き手だったり子守だったりと労働力として使われ、学校へ行かせてもらえないということが(特に田舎の農村部では)かつてはざらにあったわけです。
今でも発展途上国などではよく見受けられる風景です。

子女に普通教育を受けさせる義務というのは、こういったことを念頭において置かれてきた規定であり、憲法26条2項前段は、明治憲法下で臣民の三大義務の一つとして規定されてきた伝統を引き継いで置かれた規定だと考えるのが一般的だと思われます。
(なお、教育の義務については、明治憲法下では勅令により定められていたそうです(③ 533頁))

木村先生の言う親の思想・良心の自由や信教の自由を解除するためという話は、現代的にそういう意義を新たに読み込む必要性があり、解釈上そう読み込むことが可能である、という話ならまだ一定程度理解できそうではあります。
しかし、それでも今のところは木村先生が思いついた独自説という感が拭えません。
「押しつけ憲法論」ではないですが日本国憲法制定過程にGHQがかかわっていますので、一応、GHQ案起草者らが「アメリカのキリスト教原理主義者が…」の事例も念頭に置いて憲法26条2項前段を置いた可能性も否定はできませんが(私もそこまで日本国憲法制定史を確認したわけではないので)、正直それも考えづらい話だと思います。
やはり、それ相応の意義があるのであれば、それが今日木村先生が言い出すまで著名な憲法学者の概説書で全く触れられないなんて考えづらいですから。

勤労の義務の意義


これに関しては木村先生の説明通りです。

ただ、オーソドックスな教科書を見る限り、権利保障解除規定説にのっとり、勤労の義務が規定されていないと生活保護法で、勤労の能力と機会があるのに働かない人に生活保護を受給させないことを正当化できない、とまで考えてはいないようにも見受けられます。

伊藤先生などは、「要するに、働く能力のある者は、自己の勤労によって社会で生活を維持し、時には社会に貢献すべき道徳的規範を定めているにすぎない。ただし、実定法のなかにこの勤労の義務の趣旨が現れている場合があるが、それは社会国家的給付に内在する当然の条件である」(⑤ 410頁)と抽象的な権利を根拠にすることすらなく、生活保護受給という社会権の内在的制約を認めています。
伊藤先生の考えが100%正しいなんて盲目的に主張するつもりはありませんが、ここでも権利保障解除規定説が木村先生の独自説に過ぎないのではないかという印象を受けました。

納税の義務の意義


納税の義務(憲法30条)については、「国民主権国家においては、国民の納める税金によってのみ国家の財政が維持され、国家の存立と国政の運営が可能となることからして、国民の当然の義務と解されている」(③ 537頁)そうで、憲法30条は「当然の義務(liable)を明示するもの」(④ 171頁)と一般的に解されているようです。
伊藤先生に至っては、「租税が国家財政の維持に不可欠のものである以上、憲法の明文をまつまでもなく、国民が納税の義務を負うのは当然である」(⑥ 129頁)と明言されていて、権利保障解除規定を不要とする立場に立っています(というか、伊藤先生はそもそも権利保障の解除なんて考え方自体、念頭にも置いていないんでしょうけど)。

国家の徴税が国民の財産権を侵害し、両者がバッティングすというのは木村先生の言うとおりなのですが、だから「納税の義務を定めておかないと、「税金をとるのは、財産権侵害だ。正当補償がなければ税金なんて払わない」との主張ができることになりかね」ないというのは、上記の理解にてらしても無理筋な議論のように思われます。

ちなみに、アメリカ合衆国憲法では、連邦議会の権限として租税の賦課・徴収権限を認めています。
別に納税の義務を定めなくとも、議会の課税権という具体的な権利に基づいて国民の権利を制約する方法だって十分にあり得ます。
アメリカ合衆国憲法 
第8条[連邦議会の立法権限]
[第1項]連邦議会は、つぎの権限を有する。合衆国の債務を弁済し、共同の防衛および一般の福祉に備えるために、租税、関税、輸入税および消費税を賦課し、徴収する権限。但し、すべての関税、輸入税および消費税は、合衆国全土で均一でなければならない。
なお、木村先生自身が本書の別のところ(① No.359)で無理筋の議論に対しては、
もちろん、そうした解釈をする人も出てくるだろうとは思います。ただ、専門家から見たらありえないことを「こういう解釈も可能だ」と強弁する人がいるのは、ある意味仕方がない。そういう人は、無視するしかないはずです。
と切り捨てるべきだと発言しています。
申し訳ないのですが、木村先生の無理筋な議論も無視されるべき対象のように思われてなりません。

「憲法学における前提」って何?


橋下氏は、憲法が国家権力を縛る(制限し、統制する)ものだという本質から、それにそぐわない国民の義務規定は置かなくてもいいのではないか? という問いを発しています。

それに対し、木村先生の答えは一見「憲法論を精緻に突き詰め」(① No.395)た解説のように思われます。

が、よくよく調べると憲法学会のスタンダードな理解でもなければ、通説的見解に根ざした説明でもありません。
独自説を打ち出すのがダメだというつもりはありませんが、木村先生は「憲法学における前提」を押さえるとして上記の説明をなされました。
このような前置きをした上で、憲法学会の一般的・通説的な見解に基づくオーソドックスな説明を求められているところに、スタンダードでない独自見解で説明するというのは、いかがなものでしょう。
「一般的にはこう考えられています。が、私はこういう説明もできると考えています」と客観的に一般論や通説と独自説を切り分けて説明するのが解説者としての誠実さだと私は思うのですが…。


≪参考文献一覧≫
①橋下徹・木村草太『憲法問答』(徳間書店、2018年)kindle版
②芦部信喜・高橋和之補訂『憲法』(岩波書店、第四版、2007年)
③野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法Ⅰ』(有斐閣、第4版、平成18年)
④佐藤幸治『日本国憲法論』(成文堂、2011年)
⑤伊藤正己『憲法』(弘文堂、第3版、平成13年)
⑥伊藤正己『憲法入門』(有斐閣、第四版、1998年)
⑦安西文雄・巻美矢紀・宍戸常寿『憲法学読本』(有斐閣、第2版、2014年)