2013年11月18日月曜日

[紹介] 香西秀信『修辞的思考』

修辞学者である著者の本領発揮と言える一冊。著者の本は論理の型についての分析・紹介も興味深いが、論理だけでは捉えきれない非論理的な部分での説得力にフォーカスしている。古今の名文を読み直すきっかけにもなる。(crossreview

 修辞学(レトリック)の研究者である著者の本領発揮と言える一冊だろう。
 著者の本は、主に「議論の型」やその構造を分析し説明するタイプのものが多い。具体的な例文を引きつつ、時に呵責の無いツッコミや身もフタもない指摘には爆笑してしまう(『反論の技術』では、小学生の「ゴミを捨てないようにしましょう」という作文を引き、「そんなきれい事、今更お前に言われんでもみんなわかっとんねん!」と容赦なく切り捨てる姿に、私はパンクを感じた!)。

 が、レトリックによる説得力とは、論理的な正しさに回収されるものではない。むしろ、論理的な正しさこそが、レトリックの説得力の一要素でしかない(しかも必要条件ですらない)。
 論理的に正しいからといって人は納得するわけではない。例えば高飛車な態度で正しいことを言われると我々は感情的な反発を覚えてしまうことがある。別の著書において「人は論理的でないから論理で説得されるのを拒むのではない。論理的だからこそ、論理で説得されるのを拒むのだ」という指摘を著者はしているが、論理的な正しさなど、論理的な正しさを重視して感情的な反発を抑えられる価値観の、ごく限られた人間にしか通用しないものなのである。
 逆に、論理的には誤っているが、人々に何となく正しいと思わせ、納得させる言説がある。これこそがレトリックの妙であり、私のようなひねた人間はどうしても「正しいことで人を納得させようなんて、何の芸も無いじゃないか。やっぱり、どう考えても胡散臭いモノを納得させてこそのレトリックでしょ」などと考えてしまう。最近はノンバーバルコミュニケーションやメンタリズムなど、言語以外の部分でのコミュニケーション・アプローチ術が脚光を浴びているが、言説の中に潜む論理以外の説得要素について硬派に分析した本書は、それはそれで類書がないのではないだろうか(あったら教えて下さい。是非読みたいので!)。

 以下、思いつくままに内容紹介。

■第一話 そして誰も論理的でなくなった:
 シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』

 「ブルータス、お前もか!」というセリフで有名な共和制ローマのジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)暗殺後の、アントニーの演説を分析したもの。アリストテレスの『弁論術』を引きつつ、アントニーが一貫してブルータス一味のエートス(論者の信用性)を攻撃し、ローマ市民の怒りをコントロールして市民達をいつの間にか説得しているアントニー…おろしい子!

■第二話 逆説は通念に寄生する:
 ラ・ロシュフコー『マクシム』

 逆説というのは、通念に寄りかかってしか存在し得ず、逆説が通念を打ち負かしたとき、それはその逆説が新たな通念となったことを意味する。
 これって、「夢を追い越したとき 僕らは光になるのさ」という歌詞を「誰か目標になる人をずっと追いかけ続け、その人を抜いた時、自分が今度は誰かの目標になっている」という意味ではないかと言った島本和彦さんの「激走戦隊カーレンジャー」の歌詞解釈に通じるものがあります。…違うか。

■第三話 心の弱さと議論法:
 ドストエフスキー『罪と罰』

 なぜ二つの論理を用意しなければならなかったのか? 自己正当化の論理は多ければ良いというものではなく、その相性によって互いの説得力を相殺してしまうことだってあり得る。
 そして、そのように正当性の材料をかき集めるような論理を構築した根底には、自分の正しさに対する自信が、自分自身で持てなかったのではないか、というラスコーリニコフの心理が透けて見える。

■第四話 自己欺瞞の文法的特徴:
 中島敦『山月記』

 普通、告白というと「したこと」を告白するものだが、最後の最後までしなかったことしか告白しない李徴。否定形で語られる李徴の告白の裏に隠された、李徴が守りたかったものとは?
 文章構造に心理が浮かび上がるって、怖いなぁ。

■第五話 屁理屈で取り戻した青春
 伊藤整『青春について』

 伊藤整の文章自体はあまりピンとこなかったのだが、これを高校生に読ませたって仕方ないだろうという著者のツッコミに笑ってしまった。

■〈補〉議論の型と論者の思想の関係について
 R・ウィーバーの修辞理論の検討

 R・ウィーバーが提唱した「議論の型と論者の思想的傾向(論者は保守思想の持ち主か、それとも革新的な思想をするのか)と関係がある」という指摘は、著者自身も言及しているようにかなり無理のある議論だった。
 が、ある論者がある議論の型(論法)を選択するとき、そこにはその論者の価値観や思考の傾向・偏りが反映されている、という著者の指摘は興味深い。
 我々は、文化や言語を同じくする者の間でも、何を正しいと思い、何に痛みを感じるかなどの微妙なところで価値観が一人ひとり異なっている。それもある程度は類型化できるだろうが、その価値観が複数の類型にわたることは避けられない。
 そして、人間というのは哀しいことに、ほぼ無意識のうちに自分が一番心理的ダメージを受ける論法を選択してしまう。が、その攻撃は相手が似通った価値観に根ざしていないと十分な効果は得られない(例えば、恥知らずな人間に、相手の恥をあげつらう論法が功を奏しないように)。それどころか、空振りした攻撃を通じて自分の弱点を論敵に教えることにすらなってしまう。
 議論というものを考える上で、著者の指摘は一読に値するだろう。


 本文の体裁は論文チックでありますが、文章は学術論文的な堅さを感じさせない読みやすさがあり、それ以上に内容が面白い! オススメの一冊です。