2012年11月16日金曜日

[紹介] 武富健治『掃除当番』

武富健治『掃除当番』
武富健治の初期短編集。『鈴木先生』に繋がる表題「掃除当番」や「ポケットにナイフ」意外にも掘り出し物が。主人公が一見弱い友達を若干上から目線で心配してたけど、実は自分の方が…って構造の話に心ざわついた!(crossreview

 文学とは何かについて定義するほど文学について理解しているわけではありません。が、この作品は文学だと思いました。

 表題作の「掃除当番」は、『鈴木先生』5巻の「@掃除当番」の元になった話です。
 僕は鈴木先生の話でもベスト3に入るくらいこの話が好きで、以前別の記事でも紹介しました。そちら(『鈴木先生』の方ですが)を少し再録します。
 僕が今回取り上げるのは、『鈴木先生』の5巻です。
 
 僕、『鈴木先生』が大好きなんですけど、その中でも一番好きな5巻を今回選びました。
 
 『鈴木先生』というのは中学校を舞台にした話で、中2の担任の名前が鈴木先生というわけですね。
 この作品って、学校の中で起きるいろんな事件に生徒の心理細かく分析して掘って掘って掘り尽くして出てくる細かい機微みたいなものを描こうとしているんです。作者が確かNHK・BS-2の「マンガノゲンバ」で言うてたと思うんですけど、曰く「1とか2とかでなく、1.512841くらいのことを描きたい」んだそうです(笑)
 見て貰ったらわかるんですが、これ普通の単行本より大きいですけど、コマ割りが4段とかで組んであって、ものすごく細かいんですよ。
 で、そこに字がぎっしり詰まってます。
 おそらく日本のマンガで(=世界のマンガで)この分量で字が詰まってるのは、『ゴーマニズム宣言』と『鈴木先生』と、あと『名探偵コナン』ぐらいです(笑)
 
 そして、そんだけ字を詰め込んだ中で細かーい分析をやっていて、またそれを非常にねちっこく描くんです。
 ただ、あまりにもやり過ぎているんで、テンション上がりすぎてギャグ的にも読めちゃいます。
テンションが上がりすぎて変なこと言ってる部分がかなりあるんで、そこがギャグとして重層的に読める作品になってるんですね。
 
 では、なぜ5巻か? なんですが、実はこの5巻で、鈴木先生自身が教師人生をある意味で決定づける、鈴木先生の心に今だ影を落とし続けている事件が起こるんです。
それって言うのは、こういう話です。
 
 鈴木先生が新任の頃の話で、教室掃除の班分けとその掃除が舞台です。
 このとき、不良の子とか心に問題のある子のいる班の中に、一人まじめで普通の子が入った班ができちゃうんですよ。その子の話です。
 掃除当番は、まず不良がフケちゃいます。他の子も、情緒不安定な男子がいたりして、机を戻すときにガリガリ引きずったりしてるんですね。でも、それを注意するとパニックを起こして暴れちゃうから、「それは言わないで」と言われる。
 …という風に、みんなそれぞれ「事情」があるんです。「事情」があるからこそ、あの子もこの子も許さないといけなくなります。
 しかも、同じ班の残りのメンバーも、サボった不良や、情緒不安定な男子がサボってるのを見てるとばからしくなって「やめたやめた」とサボっちゃう訳です。
 結局、その子は一人で掃除をしちゃうんですね。もうみんなサボってやめちゃったんだから、一緒にやめればいいのに。自分でもそう思うんです。だけど、やめられないんです、この子は。
 そこでこの子は言うんですね。「私には事情がないから苦しくなっている」って。本来、「事情」がないことは幸せなことですし、生真面目さってのは賞賛される気質のはずです。でも、それが全部その子を苦しめる方に働いている、という逆説的がここで描かれています。
 
 これって結局何かって言うと、構造的には「寓話」なんです。
 読んでいただければわかるんですが、この作品は妙にテンションが高かったり、中学生らしからぬ硬いネーム(台詞)があって、中学校っていう舞台の中で作り込むとテンションが逸脱してて違和感があるんです。
 だけど、その本質とか構造を引き抜いて大人の世界に当てはめると、結構しっくり当てはまるんです。
 
 実は僕自身、個別指導の塾講師をしたとき、鈴木先生と同じ「思い当たる節」があってですね。やっぱり手のかかる子ばかりに時間を割いてしまって、出来る子には自習中心、みたいな授業にしてしまいがちだったことが往々にしてあったんです。
 
 そういう「現代の教育現場は、出来る子が精神的な我慢と不利益を引き受けることで成立している側面がある」という構造、もっと抽象化すると「ある組織や社会では、一部の出来る人間が能力を根拠に、そして善意を人質に取られる形で『負担』を押しつけられる。そしてそれによって何とか組織が成立している、回っている」という図式が見えてくるわけです。
 
 こういう、物語の中に、抽象化したら応用範囲の広いテーマや図式が内包されている、これこそが「寓話」の働きなんですね。そして、寓話として読んだとき、『鈴木先生』はものすごく考えさせられますし、「使え」ます。
ホントにいろんなところで使えるんで、一度読んで頂ければ思います。

 大多数の人には、学校教育や社会生活において、"普通にできるが故に"少しずつ負担を負わされ、しかもその事実について全く省みられてこなかったという経験があるのではないでしょうか。問題行動を取る人たちには注目が集まります。彼らが生み出すそのマイナスを是正するため、社会からコストが割かれます。
 が、ここで、これらのコストを支出するのは「普通にしている人たち」です。例えば学校の不良グループ。彼らが授業を妨害し、問題行動を起こし、それに教員の手が取られることにより大多数の普通にしている人は、有象無象の迷惑を、薄く広く被っています。しかし、その不利益は、単体では微々たるものであるがゆえにほとんどまともに省みられることがありません。

 「真面目に生きている者が馬鹿を見る」というのはいささか乱暴な括りかもしれませんが、そういうフラストレーションというのは常に溜まっているように思います。そして、これは私見ですが、おそらくネットユーザーの多くはそういう「割り」を食ってきた人たちが多いのではないか、と。

 最近、生活保護の不正受給問題が取り沙汰されていますが、特にネット界隈で盛んに叩かれているのを見ていると、叩く側の根底に流れている不満の一つに、この「掃除当番問題」があるように感じます。
 真面目に仕事をして納めた税金が不正受給者というフリーライダーに使われ、しかも自分たちより良い生活をしている。これ以上の「真面目に生きている者が馬鹿を見る」があるでしょうか。
 そして、こういう不満の蓄積とその情念の爆発は、多分に感情的で過剰であることもしばしばです。その過剰性に対して個別案件における罪と罰の不均衡を申し立てることは、それはそれで必要です。が、薄く広く蓄積されてきた不満の噴出については別途考えないと、問題の抜本的な解決にはなりませんし、他のフリーライダー事案があらわれたときに今度はそちらに過剰な集中砲火が向けられることになります。

 問題行動を起こす一部の人たちが注目を浴びやすいのは確かです。が、その裏で、大多数の普通の人たちが薄く広く迷惑を被っており、しかもそれについて誰も省みない。その省みられなかった大多数の受ける小さな「痛み」や「不愉快」に眼差しを向けたのが「掃除当番」だと思います。

 他にも、本書に収録されている作品は、いずれも単純に1か2で割り切れないテーマばかりです。心をざわつかせる話ばかりではありますが、1と2で割り切れない世界について考えてみたいという人に特にオススメです。