2010年1月31日日曜日

「美味しんぼ」のジレンマ

僕が折に触れて考え込むテーマの一つに、この「美味しんぼ」のジレンマと名付けた問題があります。
問題の構造自体は単純です。

全くの味音痴で、どんなに不味い料理を食べても「美味しい!」と心から感動できる人生と、美食の道を究めんと味に対するリテラシーが上がりまくり、何を食べても粗ばかりが見え、なかなか心からの満足を得にくい海原雄山のような人生

…これ、どっちがいいのだろうか? というものです。

感動なんて所詮は個人的な感情であり、個人が満足できればそれでいい、という考え方も一方ではあるでしょう。何の前提知識もない人間が、ある作品を見て素朴に感動を覚える。それを否定するのには躊躇を覚えます。

でも、より深い感動を味わうにはある程度「素養」というものが要求されるのも確かです。「教養」と言って良いのかもしれませんが、そういう知識を前提にして初めてモノの本質を深く味わえる、ということはあるはずです。

土屋賢二の『猫とロボットとモーツァルト』という本の中でも、この問題について触れている部分があります(該当箇所だけを読みたい方は、本屋さんの大学受験参考書のコーナーで、センター試験現代文の2000年追試第1問をご覧下さい)。一番身も蓋もない例を挙げている所を引きます。
アメリカのある一家が子供の教育のためにグランド・キャニオンに自動車旅行をした。父親は道すがら、グランド・キャニオンができるまでにどれだけ長い年月がかかったか、この自然の驚異を一目見ようと人々がヨーロッパからはるばるやってくることなどを、こんこんと子供に語って聴かせた。ついにグランド・キャニオンに着いた一家は縁に立って、畏敬と脅威の年をもってながめ、写真をとった。その夜、父親は教育の成果を確認するため、子供がつけている日記をこっそり見た。日記には一行書いてあるだけだった。「今日ぼくはつばを一マイル先まで飛ばした。」
同じモノを見て同じように歓声をあげても、十分に味わっていないことがありうる。十分に味わっているかどうかを決める基準は、鑑賞しているときのふるまい(どこでどんな反応を示したかなど)のほかに、どの程度理解しているかということも含まれているのである。もちろん、ここでいう「理解」をもっていなくても芸術を楽しんでいる人が数多くいるという事実を否定するつもりは毛頭ない。ただ、そのような人の楽しみ方は、作者をはじめ専門家の楽しみ方とは異なったものであるとわたしは言いたい。ちょうど、野球のファンにも、なぜこの場面でこの選手がこう動くのかといったことを選手と同じくらい良く理解して楽しむ人もいれば、そんな理解なしにただ勝敗だけを楽しみにする人もいるのと同じである。
今回この問題を考えたのは、書道家として最近売れっ子の武田双雲さんの字を、僕が一度も良いと思わなかったことがきっかけです。

僕自身は、小中学校と書道をやっており、一応「中学生ではもうこれ以上上がらない」ところまで段位が上がったこともあります。手の方は先生が「書かないと腕はすぐ落ちるで」と仰ったとおりになってしまいましたが、目や感覚だけは昔のまんまのつもりです(この辺の感覚は、例えば四十過ぎたおっちゃん達のサッカー部の同窓会で、昔を懐かしんでサッカーをしたら、昔の感覚でパスを出すけど体がついてこず、パスも中途半端ならフォワードもそこにいなかった、みたいなのを創造していただけたらと思います)。

で、昨日ふと思いついてGoogle先生にお伺いを立てたら、「武田双雲 」と入力したら一番の候補に上がったのが「武田双雲 批判」で、「やっぱりみんなもそう思ってたんだ」と思いました。

リンク先のブログを見ると、武田氏は書道家として要求される基本的な技術がちゃんと身についていない、というような書道家の批判がありました。

僕はそれで納得し、「なるほど、何かあの人の字が上手いとも良いとも思えなかったのはそういうことか!」とスッキリしたんです。

しかし、そこにつけられたコメントの中には、「私は書については素人ですが、武田双雲さんの書を見て感動しました。専門家的にどうかは知らないですが、人を感動させる作品である以上、否定されるモノではないんじゃないですか?」みたいな反論があったんですね。

ここでまた僕の中に悩みが発生します。

僕の書の理解だって所詮は昔やった楷書・行書の基礎の基礎、入り口レベルでしかないでしょうし、書以外の作品全てに通暁し、専門的な観点から楽しむなんて不可能です。書のジャンルでだって僕の感性は否定されることはあるでしょうし、他のジャンルなら尚更、僕がこのコメント主と同じ立場に立つことは十分あり得ます。そして、そのとき、僕は自分の感動を専門的な観点からレベルの低いものと評価され、嫌な思いになるはずです。

でも、一方で、素人である自分の素朴な感動に至上の価値を見いだすことにも抵抗を覚えます。長い年月の中で厳しい選別に合いながら、それに耐えてきた物の価値を、自分がわからないということを以て否定するのも激しい思い上がりのように思えてならないからです。

正直、考えれば考えるほどよくわからない問題です。問題設定自体がハッキリしていないので、何を言いたいのかもハッキリしない部分がありますが、取りあえずここまで書いておきます。

《2010年2月2日・追記》

問題の本質からはずれるかもしれませんが、今、僕の中でこの「美味しんぼ」のジレンマは自分の感情の相対化のための思考ツールとして用いています。
すなわち、自分が素人的な立ち位置のときは、自分の感動や感性を否定された形になるのでたいていムカッときます。が、素人レベルで素朴に感動したことはもう起きたことで、それを否定して自分のレベルが上がるわけでもないし、「それはそれ、これはこれ」で良いか。でも、当該作品についてより深い教養があればもっと違った見え方がするんだなぁ、なるほどね。…と考えます。

これにより、一時の感情で反発せず、そのジャンルが蓄えてきた知の体系を少しでも吸収できるように感情をコントロールします。

逆に、自分が多少なりとも背景的知識を持っている場合には、それで感動することが悪い事じゃないんだけど、こういう事を知ったらもっと楽しめるし、この世界にはもっと凄いモノがあるんで、それをわかって欲しいなぁ…と考えます。

こうすることで、大上段に「そんな紛いもんで感動するなんて!」みたいな言い方をせず、「いやいや、それもいいけど、もっと良いのがありましてね…」的に、より第三者に訴求する形での言い方(サジェスチョン)に変わるんじゃないかな、と思ってます。